私にはまだまだやることが沢山ある 息子からの贈り物「生体肝移植」全告白 衆議院議長・河野洋平さん

取材・文:松沢 実
撮影:山口 遊
発行:2004年11月
更新:2018年9月

  
河野洋平さん

こうの ようへい
昭和12年1月15日、神奈川県生まれ。早大卒。商社勤務を経て政界へ。ロッキード事件を機に自民党を離党し新自由クラブを結成。復党後、宮沢内閣で官房長官、野党時代の党総裁を務め、村山内閣で副総理兼外相。加藤紘一元幹事長が旧宮沢派を継いだことから独立、河野グループを旗揚げした。小渕、森政権でも外相を務め、平成15年11月に衆議院議長に就任。

衆議院議長の河野洋平さんが生体肝移植を受けたのは2002年の4月16日だった。C型慢性肝炎から肝硬変に進行し、いつ肝臓がんを発病させてもおかしくないという状態の中で、前年の8月から3回の肝性脳症に襲われ、食道静脈瘤が破裂寸前という急速な病状の悪化をきっかけに、最後の手段として長男・太郎さんからの肝臓移植によって九死に一生を得たのである。

河野さんが肝臓の異変を最初に告げられたのは1973年、36歳のときだ。その後、新自由クラブを旗揚げした年の翌年(77年)から異様なだるさに襲われるようになった。自民党へ復党した86年頃には黄疸も現れ始めた。93年に自民党総裁に就任し、村山内閣の副総理兼外相として八面六臂の活躍をする間も肝炎はさらに進行し、ついには肝硬変と診断された。その間、89年に妻の武子さんが子宮がんの手術を受け、一度は回復したものの、その6年後(95年)にがんで亡くなるという不幸も重なった。

2001年に外相(森内閣)という重責から解放されたあとは、緊張感も緩んだせいか、肝性脳症など肝硬変の末期的症状が一気に身体に現れだした。いわば、死の一歩手前の半死半生状態から、生体肝移植によって奇跡的に甦ったのである。

移植された肝臓はほぼ元通りの大きさに

――生体肝移植を受けてから2年目を迎えましたが、現在の体調はいかがですか。

河野 おかげさまでいま肝臓の調子は非常によいようです。肝機能はGOT、GPTともに2桁台の正常範囲内に収まっています。31歳のときに2つの検査値が3桁台へ上がって以来、40年ぶりの2桁台です。
つい最近、移植後2年目のチェックを受けたのですが、移植された肝臓はほぼ元通りの大きさに戻っているとのことでした。肝臓はもの凄い復元力があるのですね。私は今年で67歳になりましたが、肝臓だけは息子の40歳代のものです。身体の中のバランスなどはどうなっているのだろう、と思うこともありますが……(笑)。
移植後は免疫抑制剤「プログラフ」を1日2回、12時間ごとに朝食と夕食の前に飲んでいます。服用量は徐々に減ってきました。
当初は食生活などに関して、細菌感染などの予防のため、刺身等の生ものを避けるなどさまざまな制限がありました。でも、術後1年を過ぎてから少しずつ制限が解かれ、いまはグレープフルーツ以外なら、なんでも食べてもよいと言われています。そのせいか移植直後は62キロ前後に落ちていた体重が、8キロも増えて70キロの大台にのっています。「あまり食べ過ぎないでください」と医師から注意されているくらいです。

GOT、GPT=肝臓がブドウ糖を燃やしてエネルギーを取り出すのに必要な酵素。おおよその正常値はGOTが10~40IU/l、GPTが5~45IU/l
免疫抑制剤「プログラフ」=肝移植および腎移植における拒絶反応の予防、ならびに臓器移植において他の免疫抑制剤が無効な拒絶反応の治療を適応症として使用される

意識が朦朧状態となり、昏睡へ陥る一歩手前にまで

写真:信州大学医学部付属病院を退院する河野議長

長女の治子さんを伴い、にこやかに入院していた信州大学医学部付属病院を退院する河野議長

――生体肝移植を受けるに至った直接的な経緯を教えてください。

河野 私は2002年の4月に生体肝移植を受けたのですが、その前年の8月から急速に機能が悪化し、肝硬変が始まったのです。カナダで国際陸上競技連盟の幹部との会談の日程をすまして帰国した8月だったと思います。地方で1週間ほど静養していたのですが、そのときに最初の肝性脳症を起こしたのです。身体を支えきれず食卓に寄りかかったり、ナイフとフォークが上手に使えなくなったりしました。あとから聞いた話ですが、風呂の中でボーッとなっていつまでも出てこなかったり、背広を着て帰り支度をしているのに頭にキャップをかぶっていたりするなど、私の様子がおかしかったらしい。帰京した日は事務所の階段をのぼるのがやっとの状態で、急きょ社会保険中央総合病院へ運びこまれ肝性脳症と診断されたのです。
肝性脳症は肝硬変などによる肝機能の低下からアンモニアなどが解毒されず、血液中に回って引き起こされる意識障害です。最悪の場合、完全に意識を失い昏睡状態となりますが、数週間後に2回目の肝性脳症を起こし、それからまた1カ月後に3回目を起こしました。いずれも車中で意識が朦朧状態となり、昏睡へ陥る一歩手前までいったのです。
食道静脈瘤が見つかったのは翌年(2002年)の1月です。肝硬変の悪化から眼が黄色く、尿は紅茶色となったことから順天堂大学医学部付属順天堂医院へ入院したのですが、そのときの精密検査で発見されたのです。
食道静脈瘤は肝硬変によって門脈の血流が滞り、その圧力の上昇=門脈圧亢進から食道粘膜下の細い静脈に瘤ができるものです。瘤が突然破れると大出血し、死を招くこともあるというので、輪ゴムのようなリンクで瘤を縛る結紮術による治療を受けました。私の場合、11もの瘤にリンクをかけたのです。
この頃、体調がよくなる兆しはまったく感じられませんでした。身体のあちこちに猛烈な痒みが生じるなどの異常が発生し、満身創痍の感がありました。そして、ベッドの上で過ごす日数が増えるほど、みるみるうちに体力も気力も低下し、政界の第一線に復帰するどころか、社会復帰もおぼつかないのではないか、もしかしたら私の人生はこのまま終わるのではないか、と初めて死を意識しました。
「私の肝臓をお父さんにあげるわ」と娘の治子が言い出したのはそんなときです。2月13日の夜だったと思います。思わず「バカな」と怒気を含んだ声をあげてしまいました。「私はそんなことはしたくない。もう一度よく考えよう。今日はもう遅いから帰りなさい」と叱って話を切りあげたのですが、それから、家族の間で生体肝移植の話がどんどん進められていったのです。

体の状態に愕然とし、遺書を書いたことも……

写真:河野さん

――お子さん方とは生体肝移植についてどのようなことを話し合われたのですか。

河野 長男の太郎が「こういうことは長男が責任を持つのが自然だろう」と自らドナーとなり、私に生体肝移植を勧めにきたのは間もなくのことです。「オヤジ、これは俺のおもいつきや受け売りで勧めるわけじゃない。俺なりに勉強したうえで言っているんだ。生体肝移植はオヤジが思っているほど危険な手術じゃない。成功の確率は8割以上あるし、日本ではドナーの死亡例もない」と説得にかかってきました。
しかし、私は肝移植を受ける気持ちは少しもありませんでした。人間には寿命というものがあり、自分の肝臓が駄目になって死ぬのなら、それが神様が与えて下さった寿命なのです。健康な子どもの腹を割いてまで、人為的に寿命を延ばすつもりはないのだと断りました。
ところが、太郎も頑固で、「肝臓をやると言っているんだから、ごちゃごちゃ言わずにありがとうともらってくれよ。それで生き延びられるなら、それでいいじゃないか」と大声を出し、私も「わからんヤツだな」と怒鳴り、しまいには口論となってしまいました。「俺の肝臓を受け取れ」「いや、受け取らない」というやりとりが延々と続いたのです。それまでなにもやる気がなくなり、気力も喪失していたのですが、このときばかりはまた元気が出て太郎とやりあいました(笑)。

――生体肝移植について一番ご心配なされたのは、どのようなことでしたか。

河野 移植するために肝臓を切らなければいけない太郎の健康を心配したのはもちろんですが、太郎には妻の香もいるし、その妻には親もいるのです。自分の夫が内臓を提供して父親を救う決意をしたことに賛成するのは、複雑な気持ちだったと思います。
息子夫婦は結婚後8年間、子どもができるのを待ち続けていました。なにより人生を共に歩くと決めた夫が、健康なのにお腹を切るというリスクを冒すわけですから。恐らく夫婦の間で、他人には言えない話し合いをしたにちがいありません。
一方、娘の治子が移植の話を持ち出してから1週間もしないうちに、私に生体肝移植の説明を行うため信州大学の橋倉泰彦先生が上京してきたのです。そんなに切羽詰まっているのかと愕然とし、私は夜になってから遺書を書いたのを昨日のように思い出します。
しかし、太郎からの移植は受けないと決めていたので、太郎とは何度も言い合いになりました。そのうち「勝手にしろ」という話になったのですが、そこまで太郎が言うのなら「断れないな」という感じがありました。もうその頃から移植へ向かってエスカレーターに乗せられたような感じだったといえます。

日本ではドナーの死亡例もない=河野さんが肝移植を受けた当時。2003年に次ページのコラムに記した死亡例がおきている

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