快楽を追求したSM界の寵児は、生を遊び、最期のときさえも遊んだ 借金にがん、どんな風に吹かれてもしなやかに、一期の夢を生きた──。団鬼六さん(作家)享年79

取材・文:常蔭純一
発行:2011年11月
更新:2018年10月

  
団鬼六さん 団鬼六さん
(作家)
享年79

人は、その生の時間をどこまで楽しむことができるのか。がんすらも自らの人生ゲームに入れて最期まで遊び倒した、SM作家の大御所、団鬼六さんの人生の楽しみ方とは──。写真/Yasuko Fujisawa


その作家の遺作となったエッセイ『愛人犬アリス』の巻末には、1枚の写真がある。

家族はもちろん作家仲間、編集者、映画関係者、趣味の将棋界関係者、なじみのバーのママ、世話になった看護師、刺青の彫師、はては書名にある愛犬まで、多くの人たちが集うその写真は、作家が死の直前に催した「花見舟の会」で撮影されたものだ。

それは、何より人との交わりを好んだ作家の最期のドンチャン騒ぎでもあった。

定員オーバーの最後のドンチャン騒ぎ

数年前から患っている慢性腎不全に加えて食道がんの肺への転移。体調が良いはずがない。しかし作家は迷うことなく静養より友人たちとの交わりを選んだ。そして屋形船に乗れる定員いっぱいの60名もの人が参集した。

花見舟

静養より友人たちとの交わりを選んだ団さん。花見舟には、様々な業界から多くの人が集まった

「俺に会いたいというヤツはみんな呼べ、という父の言葉に従ったらそうなりました。無頼派作家というレッテルとは裏腹に、父は家族や友人をこよなく愛し、慈しみ続けていました。金持ちも貧乏人も、大女優もストリッパーも、自分を慕って訪れる人は地位や肩書きに関係なく受け入れた。そうした友人たちが楽しんでいる姿を見るのが父は大好きだった。最後にバカ騒ぎを楽しみながら、友人たちに別れを告げたかったのでしょう」

団さんの長女、黒岩由起子さん

「柳に風のように生きた父は、最期まで生きることに喜びを感じていました」と話す団さんの長女、黒岩由起子さん

そう語るのは、作家の長女でマネージャーを務めていた黒岩由起子さんである。

その1カ月後、作家は体調不良で再入院した病院で静かに息を引きとった。SM小説の大家として知られ、生涯をかけて快楽を追求し続けた作家、団鬼六さんは、そうして最期まで人生を謳歌して世を去った。

「『一期は夢よ、ただ狂え』という言葉が座右の銘でした。1度きりの人生だから思うままに生きよ、と僕は解釈しています。人は自由に生きればいい。先生からは何よりそのことを教えられたように思います」

と語るのは、団さんの1番弟子ともいうべき存在で、死の直前まで友人、ブレーンとして団さんを支え続けた中原研一さんだ。中原さんは「遺された者」として、団さんの知られざる仕事を世に伝えていきたいという。

その名は、SMの代名詞に

これほど毀誉褒貶に満ちた人生も珍しいのではないだろうか。団さんが「賞金目当て」に相場師だった父親をモデルに執筆した『親子丼』で『オール読物』の新人賞に入選したのは1957年。その後大阪から上京、団さんは流行作家としての地位を確立する。もっともデビュー3年後に早くも状況は暗転した。新橋でのバーの開店がきっかけで、出版界の大立者から文壇を追われることになったのだ。

作家としての再デビューの機会はひょんなことから訪れた。本格小説の傍らにある雑誌に、変名で執筆した官能小説『花と蛇』の人気が根強く、中学校で英語教師として働く団さんに、再び連載依頼の話が舞い込んだのだ。折りしも時はSMブーム。人間心理の機微を捉えた団さんの作品は絶大な支持を集め、やがて団鬼六の名前はSMの代名詞というべき存在になる。

中原研一さん

団さんの人生から、「人は自由に生きればいいと教えられた」と話す中原研一さん

そのころ、大学の先輩に連れられて団さん宅を訪ね、後に大学を休学して団さんの弟子となる中原さんは、当時の団さんの人気ぶりをこう語る。

「従来のポルノ小説の枠を破る文学性を備えていたからでしょう。先生の作品はとりわけインテリ層の人気が高かった。月産500枚。8誌で作品を連載し、出版社ごとに色分けした原稿用紙に執筆していました。団鬼六の名前が表紙になければSMにあらずという状況で、人心掌握にたけた先生は、巧みに編集者を操って原稿料をアップさせ、当代随一の作家、松本清張さんと肩を並べるほどでした」

団さんの磁力の強さか、中原さん自身の人生も波乱に満ちたものになる。団さん宅に住み込んだ中原さんは、団さんが発行する雑誌「SMキング」の下っ端編集者となり、その後は編集業から離れ、山小屋の番人に。その後再び他誌の編集者、映像制作者として団さんと関わり続けた。当時の団さんの暮らしぶりは破天荒なものだったと中原さんは言う。

「先生は典型的な夜型。飲み歩いた後の深夜に執筆に取りかかることも少なくなく、ときには夜中に突然『モデルを連れて来い』と、言われることも。今思うと、先生に試されていたのではないかとも思いますが……(笑)」

中原さんは当時、若者たちのたまり場だった新宿の深夜喫茶「風月堂」に足を運び、女性を物色していたという。

由起子さんが物心ついたときには、すでに団さんはその分野で第1人者としての地位を確立、鬼プロという制作会社を設立し、映画やビデオ制作に乗り出していた。

「私たちが暮らしていた東京・目黒の自宅は庭や井戸がある広い屋敷で、実際そこでよく撮影も行われていたようです。家の中では裸の女優さんがたむろし、鞭や木馬などの攻め具が無雑作に置き散らかされていました。私が『これは何に使うの?』と尋ねると、父は『こんなものはどうでもええんや』と、口ごもっていましたが……」

無頼の作家はSMに快楽を見出す一方で、家族に対しては良き父親であり続けようとしていたのかもしれない。

人生の危機にも、柳に風

その団さんが新たな快楽にのめり込むのは89年のことだ。断筆宣言を行い、今度は「将棋ジャーナル」という雑誌自体を買い取って、少年時代からの趣味だった将棋に打ち込むようになる。目黒から横浜に移った自宅は10畳の和室が3間もあり、当時の棋界でしのぎを削っていた大山康晴さんや升田幸三さんも足を運び、毎日のように若手棋士たちが群れ集っていた。そのなかには現在、頂点にある谷川浩司さんも含まれる。もちろんアマ六段の実力を持つ団さん自身も対局に興じた。 

もっとも至福の時代は長くは続かず、3年後に雑誌経営は破綻、横浜の自宅も売却される。しかし、そんな危機的な状態でも、団さんの生き方にはまったく変化がなかったという。

「柳に風といえばいいのか、人生をそのまま受け入れるのが父の生き方でした。大借金をしていても節約しようなどとは露ほども考えない。また原稿を書いて稼げばそれでいい、と思っていたのでしょう」(由起子さん)

快楽を追い求める作家は、また天性の楽天家でもあった。その3年後団さんは、雑誌の経営破綻から、将棋の世界のアウトローを描いた『真剣師 小池重明』で不死鳥のように甦り、一般小説の分野で相次いで作品を発表。60代──。団さんはまた新たな境地に達していた。

しかし好事魔多し、団さんが相次いで病魔に襲われ始めるのもそのころのことである。


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