鎌田 實「がんばらない&あきらめない」対談

踊ることで気分がほぐれ、精神的な歪みがほどけてくるのかも 舞踏家/俳優・麿赤兒 × 鎌田 實

撮影●板橋雄一
構成●江口 敏
発行:2012年4月
更新:2019年7月

  

騒乱の60年代を疾風のように駆け抜けた世界的舞踏家が胃がんになって考えたこと

1970年以前に唐十郎さんたちとともに、「状況劇場」(紅テント)でアングラブームを起こし、その後、舞踏家に転身した麿赤兒さんが、昨秋、自伝エッセイを出版した。14年前に手術して克服した胃がんについても書かれている。学生時代に麿赤兒ファンだった鎌田實さんが、アングラ華やかなりし時代への懐旧の思いを込めて、麿さんの面白き人生に迫った。

 

麿 赤兒さん

「悩んでいてもしょうがない。がんだ、がんだと踊って楽しむ”がん祭り”をやろうと提案したこともあります」
まろ あかじ
1943年、奈良県生まれ。早稲田大学文学部中退。「ぶどうの会」に所属し、舞踏家・土方巽に学んだ後、唐十郎と出会い、「状況劇場」の設立に参画。「特権的肉体論」を具現する役者として脚光を浴びる。72年、舞踏集団「大駱駝艦」を旗揚げし、大仕掛けの舞踏を切り拓いて、世界的に評価。現在、「大駱駝艦」主宰・舞踏家・俳優・振付師・演出家として活躍中。2006年、文化庁長官表彰受賞。1998年に胃がんを手術。近著に『ハイパーアングルポーズ集SP怪人』(創美社)『怪男児麿赤兒がゆく』(朝日新聞出版)

 

鎌田 實さん

「あの紅テント時代の熱気で閉塞したこの国にパワーと勇気を与えてください」
かまた みのる
1948年、東京に生まれる。1974年、東京医科歯科大学医学部卒業。長野県茅野市の諏訪中央病院院長を経て、現在諏訪中央病院名誉院長。がん末期患者、高齢者への24時間体制の訪問看護など、地域に密着した医療に取り組んできた。著書『がんばらない』『あきらめない』(共に集英社)がベストセラーに。近著に『がんに負けない、あきらめないコツ』『幸せさがし』(共に朝日新聞社)『鎌田實のしあわせ介護』(中央法規出版)『超ホスピタリティ』(PHP研究所)『旅、あきらめない』(講談社)等多数

随分バカなことをやってきたもんだ

紅テント時代のスター役者麿さんと騒乱の60年代を熱く語る

大学時代、状況劇場(紅テント)の芝居はほとんど観たほどの芝居好きな鎌田さんが、紅テント時代のスター役者麿さんと騒乱の60年代を熱く語る

鎌田  私は長野県の茅野市にある諏訪中央病院の医師を37年やっていますが、もともとは東京生まれ・東京育ちで、大学時代は「状況劇場」(紅テント)の芝居をほとんど観たほどの芝居好きで、麿さんのファンでした(笑)。ただ、麿さんが舞踏集団「大駱駝艦」を旗揚げされ、舞踏の世界に足を踏み入れられた頃には、東京を離れて田舎医者になっていましたから、申し訳ありませんが、麿さんの舞踏は観たことがないんです(笑)。

麿   私は茅野市周辺には何度も行ったことがありますよ。私の友人の田中基という男が、八ヶ岳山麓に20~30年こもって縄文遺跡の研究をし、『縄文のメドゥーサ』という本も書いています。

鎌田  ああ、そうでしたか。茅野市周辺は「縄文銀座」と言われるほど、多くの縄文人が暮らしていた地域で、茅野市の尖石縄文考古館には、周辺から出土した日本最古の国宝である土偶「縄文のビーナス」や、重要文化財の土偶「仮面の女神」が展示されていますね。

さて、麿さんは昨秋、『怪男児 麿赤兒がゆく――憂き世 戯れて候ふ』(朝日新聞出版)という本を出されましたが、本を書こうと思ったのは?

麿   友人が「書け、書け」と言うもんですからね(笑)。本来、机に向かって30分も座っていられない性分ですが、やってみるかと。いろんなエピソードや事件簿などを思い出しながら書きましたが、随分バカなことをやってきたもんだと(笑)

鎌田  若い頃は、いろんな人の家に泊まり込むのが得意だったとか(笑)。

麿   自分の家がなくて、人の家に泊まり込んだほうが安心感がありましたからね(笑)。毎日、きょうは誰の家に泊まるかを考えながら、暮らしていましたね。人の母親を「お母さん」て呼んで、「私はあんたのお母さんなんかじゃありません!」と怒られたりしながらね(笑)。

鎌田  唐十郎さんと李礼仙(現在は李麗仙)さんが一緒に暮らしていた四畳半にも転がり込んだそうですね。

麿   許してくれる奴だと直感!同じ志を持っていたといいますか、こいつはいけるぞという印象を持っていましたから、1週間ぐらいでしたが、同居させてもらいましたよ(笑)。

状況劇場を旗揚げし天下を取った気分に

鎌田  麿さんの人生にとって、唐十郎さんとの出会いは大きいですか。

麿   大きいですねぇ。もちろん私も芝居を志していたんですが、なかなか思うようにいかなかったですね。当時、芝居といえば新劇系で、私は早稲田大学文学部を中退したあと、山本安英さんに共感して「ぶどうの会」に入ったんですが、上のほうの人たちが、演劇と政治の関係はどうあるべきかといった、共産党系の難しい政治の話ばかりしていて、その内容がさっぱりわからない。政治的なプロパガンダにおもねるのもなぁと思って、劇団に行かないで、白けた気分で新宿をぶらぶらしているとき、唐十郎に出会ったんです。

鎌田  風月堂に入り浸って、コーヒー1杯で5時間ぐらい粘っているときに、唐さんが入ってきたんですよね。やはり、普通の人とは空気が違うんですか。

麿   私の席のかたわらにすっと立ったんですが、変な殺気を感じました。私は汚い格好でしたが、彼は当時では珍しい背広を着て、異様な電波を発してましたね。慇懃無礼でね(笑)。しかし、彼の存在自体がひとつの物語のようで、ほだされたというか……。

鎌田  それで一緒に芝居をやるようになっていくわけですよね。

麿   それからはべったりですね。この男と一緒なら面白くなりそうだ、という予感がしました。7年ぐらいは、マインドコントロールにかかったように、唐十郎に埋没していましたよ。唐とともに状況劇場を立ち上げ、天下を取ったような気分でやってましたね(笑)。

鎌田  当時の状況劇場は、大久保鷹さんや四谷シモンさんたちもおられて、どの役者さんも異様な光を放っていましたよね。

麿   特別に異様にしようと思ったわけではないんですけど、ほかの演劇に対するコンプレックスもあったんでしょうね、「歌舞伎、歌舞伎と言うなら、もっとかぶいてやろうじゃないか」という気持ちでしたね。既成の芝居の枠からどこまでハミ出られるか、やってやろうという気分ですね。1960年代の新宿には、既成概念を超えようとする混然とした状況がありましたからね。

鎌田  随分喧嘩もされましたよね。

麿   ボクはしませんよ。どちらかといえば、唐のほうが喧嘩っ早い。私はいかつい顔してますから、止め役です(笑)。実は状況劇場を立ち上げる前、「ぶどうの会」から分かれた若手で結成した劇団時代に、ただ1度だけ、売られた喧嘩で相手を叩きのめしたことで、その1年後に留置所に2日ばかり放り込まれたことがある。留置されたのがちょうど芝居初日の前日でした。私は初めての主役で、タイツ姿で恥ずかしい思いをしながら、一生懸命稽古をしたのに出られなかった。公演は何とかやってくれましたが、私は劇団員から総スカンをくうし、淡い恋心を抱いていた女性団員には振られるし、さんざんでした(笑)。

唐の長台詞に嫌気さし実業家に転身したが…

鎌田  麿さんが状況劇場を離れたのは、いつ頃でしたか。

麿   70年です。

鎌田  舞踏のほうに関心が移ったわけですか。

麿   そういう気はなかったんですが、その頃から唐の書く台詞が膨大な量になってきまして、私自身、消化不良を起こすようになっていたんです。唐の最初の頃の作品は、ダラダラした台詞はなかったんですけどね(笑)。しかし、だんだん文学づいてきまして、3ページほどの長い台詞を書くようになった。私も何をしゃべっているのかわからないので、途中の台詞を飛ばしてしまうと、唐は「いいかげんにしろ!」と怒るんです。

鎌田  唐さんの長い台詞に嫌気がさし、台詞のない舞踏に入っていった。

麿   まあ、それが直接の動機ではなかったんですが、「もうお芝居はやめた!」という感じになりましたね。それで、最初は実業家になろうと思った(笑)。早稲田の全共闘で頑張っていた彦由という男が、私のことを慕ってくれまして、私にプロダクションを作らせ、社長にさせて、いろんな仕事を持って来た。これで俺は大金持ちだなぁと思い込んでしまったんです。気分は詩を捨てて象牙商人になった”ランボー”(笑)。山下洋輔のレコードを売ったり、コメの産地直送販売をやったり、象牙を売ったりしてましたが、全部失敗でしたね(笑)。私が事業で成功しようなんていうのは、やはりどこかでふざけていたんです。

鎌田  いろんな事業をやりましたね。

麿   何かやばいと思いながらも、わからないままにやってましたね。でたらめな商売を1年ほどやりましたが、今にして思えば、それが芝居から舞踏にシフトした時期でしたね。

鎌田  相当の借金を背負ったんですか。

麿   あったんでしょうが、誰がどう払ったんだろうか、いまだに不思議に思いますね。当時、カネはなかったけれど、コメだけはありました。彦由の仲間に、仙台で農協の役員をやっている大農家の息子がおりましたから。押し入れを開けると、コメがドサッと落ちてきましたよ(笑)。コメがありゃあ大丈夫だろう、てな感じでした。

土方巽から学んだ身体の多面性・多様性

鎌田  大駱駝艦を旗揚げしたのは何年ですか。

麿   最初の公演は72年ですね。

鎌田  怪しい商売に失敗したあとですね。

麿   そうです。自分は商売に向かないと、自分で自分に引導を渡しました。天才の唐を間近で見ましたから、自分が芝居を書けるわけはないし、自分には身体ひとつ、踊りしかない、と踏ん切りがつきましたね。一方には土方巽という舞踏の先輩がいましたから。

鎌田  唐さんと出会う前、土方さんのところにも潜り込んで、何カ月も食べさせてもらったそうですね(笑)。

麿   3年いましたね。土方の兵隊と言いますか、ショーに参加したりしていました。かっこよく言えば、芸術のための資金稼ぎですな(笑)。

鎌田  土方さんから舞踏を教わったことは?

麿   直接手ほどきを受けたことはないんですが、寝泊まりしていましたから、夜中に土方が稽古をするのを、ボーッと見ていたことはあります。向こうも私を弟子だとは思っていなかったと思います。私も、踊りの先生というより兄貴みたいな気分で付き合いました。ただ、見よう見まねで、門前の小僧が習わぬ経を読むような面はあったかと思います。

鎌田  土方さんの踊りはすごいという感じでしたか。

麿   稽古ではそんな感じは受けなかったのですが、舞台ではこういう踊りもあり得るのかと、インパクトを受けましたね。1年ぐらい経ったとき、稽古と本番を見て、踊りというのはこういう風に成熟させていくものなのか、ということを勉強させてもらいました。土方の踊りは不可思議なものに挑んでいく難解な踊りでしたが、舞台で表現されると、身体の多面性というか、多様性と言うか、そういうものが現れてきて面白かった。言葉にして解釈するとつまらないけれども、それだけでは収まらない何かが常にありました。

鎌田  私は紅テントで観ていた頃から、唐さんが書かれた台詞が機関銃のように飛びかう中で、麿さんにだけは、その存在自体に言葉を超えたものを感じていました。そういう意味では、麿さんは芝居より舞踏のほうが合っているような気がします。

麿   言葉からハミ出るものがあるんです。芝居で、手足を動かし、跳びはねながら台詞をしゃべっていると、次第に言葉と身体が分裂してくる。本来、言葉と身体は違うものなんです。言葉で表せないものを、踊りで表すことができる。「怖い!」という言葉より、意味のない「わぁーっ」とか「ひぃーっ」という身体からの叫びのほうが恐怖を象徴的に表すことができる。

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