子宮頸がんステージⅢと診断され、子宮全摘手術を受けたフリーランス・パブリシストが綴る葛藤の日々

「必ずまた、戻ってくるから」 第3回

編集●「がんサポート」編集部
(2018年6月)

橘 ハコ さん

たちばな はこ フリーランスのパブリシスト(広報)。1974年生まれ。大手広告代理店や老舗出版社で雑誌広告営業の経験を積んだ後、2005年、出資を受けニッチマーケティング領域の会社を立ち上げる。その分野ではパイオニアとして海外からも評判を得るも、その後より自由な立場で仕事をすることを選びフリーランスへと転身、今に至る。広報・PR、マーケティングコミュニケーションの領域でさまざまな業界の仕事を請け負う

<病歴> 2013年3月、子宮頸がんのステージⅠと診断される。転院後の詳細な検査により、右腸骨付近のリンパ節に転移が認められステージⅢと確定。同年6月に準広汎子宮全摘出術を受ける。病理検査の結果、極めて微小な膣がんも確認された。同じく7月末~9月上旬まで、放射線化学療法を実施。治療の後遺症で左脚に麻痺が残り(現在はほとんど見た目にはわからないほどに回復)、10月には1人暮らしを再開し、後遺症で日常生活も必死な状態のまま11月からフルタイムでの仕事をスタートする。

麻痺の残った左脚に極めて軽度のリンパ浮腫発症が見られ、開腹手術の影響で腸が過敏になり、サブイレウス、大腸憩室炎など腹部の疾患に度々悩まされる。2018年現在、経過観察を重ね、今のところ再発はなし

いざ転院。家族との第2章開始

一時転居した場所は、豊かな自然に満ちていた

時を置かずに、東京の病院からしぶしぶ発行してもらった紹介状を手に、希望した病院で受診する。病院までは30分以上かかるので父が送り迎えを買って出てくれた。

東京では自宅から駅までは徒歩圏内で電車は次々にやって来るのだが、こんな状態はやはり特別なんだな、と実感する。

初めの頃はいい年をした大人なのに診察室に父親が同席することに慣れず、その都度いざこざが起きるのだけれど、段々にこの「家族と共に治療する」スタイルに馴染んでいく。

治療生活を家族と共有するということは、かつて置き忘れてきた家族の間にあった課題をこの病を通してやり直しているような気がしてくる。

それほどに発見や学びの多い日々だった。10代の最後に家を出て、物事の見方、価値観、人生観、仕事観など親と離れて暮らす日々の中で培われたので、両親にとって私は見知らぬ人間として帰ってきたようなものだ、と思う。

だから、病気治療の過程で何度も真剣に話し合い、それによって私たちは痛い思いをしてきたのだ。病気治療するということは、そもそも生きるためのものであり、生きることに何より重点を置いた日々となる。

そうなると、解決しないと前に進めない課題をおざなりにしておく怠慢は許されず、白日の下にすべてを晒しながら、ほころびを縫い合わせるようにして強靭な「家族のタぺストリー(つづれ織り)が紡がれていった。少なくとも私はそう思っている。

生存に関わる転移の疑念

自分で病や治療法を調べ、「この先生と望む治療に立ち向かいたい」と願ったその医師は素晴らしい方だった。初めて受診したときから現在に至るまで毎回その思いを新たにしている。この医師をはじめ家族、友人、仲間のおかげで私は治療を通して自己を鍛えていくことができたと思っている。

さて、東京の病院での検査結果や診断画像を見てもらったが例の転移疑惑は不明であった。

再検査を経て最終的にそれはリンパ節への転移だろうと思われ、そうであるなら既に早期がんではなく進行がんと呼ぶ段階に入っているそうだ。

東京でのPET検査の際、他の患者さんが1度で済んだのに私だけ再び呼ばれ、再度撮影した時に「何かあるのだな」と思った。だから、大きなショックは受けなかったものの、これまで考えてきた生存率や治療法も1から考え直さなければならなくなった。

この時期、本当に気の毒だったのは両親だった。30代の娘が自分たちより早く死ぬ可能性が高まったのだ。両親には両親の生活がある中でそんな不安を掻き立てているのが自分であるということが心の底から悲しかった。

「治療ができる」ということの意味

入院病棟。道路沿いだったけれど当時外を見た記憶がない

さてそこで提示された治療計画は、準広汎(じゅんこうはん)子宮全摘出手術と術後の放射線化学療法だった。

要するに、東京で散々悩んだ「手術か放射線か」を選択できる段階はとうに過ぎていたのだった。とはいってもそれはその悩んでいる間に進行したのではなく、もともとかなり進行してしまっていたのだ。

それまで時間をかけて調べ、自分の考えも決まっていたので、この信頼に足る医師のもとそれらの治療を受けることに迷いはなかった。

突然早期がんから進行がんへとステージが上がった現実と、女性としての臓器や機能を失う悲しみや戸惑いも、相談していたある年上の美しい女性からの「治療が出来るだけよかったじゃない」の一言で払拭されたのだった。

私たちの共通の知り合いだった方が数年前にがんで他界していた。その当時まだ若くバリバリと仕事をこなしていたその方の突然の訃報は、いまだに私たちの心の傷として生々しい。

その方ががんと判明したとき、既に末期で治療法はなく緩和ケアを選ぶしかなかったという。選択肢があることが当たり前だと思ってはいけないのだ。

選択が出来る自由、その猶予としての時間、それらが提示されるということはそれだけ可能性が存在するという意味で、これもまた1つの奇跡と言えるのだと思う。

そうして、不安や悲しみに逡巡した気もするが、やっと治療という前向きなアクションに進めるのだという決意と安堵を持って、まずは手術のための入院から本格的な治療生活、いや私の〝新規事業〟がスタートしたのだった。

いよいよ手術当日。そして……

6月8日 ICU泊 手術前夜、全く不安も緊張もなかった。医師との面談では模型を使ってオペの説明を受ける。最後の機会だと思って転院前の一連の話をすると、少なからず驚いた様子だった。

私は、前の病院を非難したかったのではなく「私がどうしても治療していただきたかった先生なので安心してお任せいたします」と伝えたかったのだった。

それと、この時期何がつらかったかというと、下剤を飲まされたことだった。手術中粗相をしないように前々日から少しずつ下剤を飲まされ、前日はさらにパワーアップした下剤を飲まされる。しかも当日早朝に浣腸をされるわけで、この一連の流れはなかなかに過酷でした。

手術当日、手術着に着替えてベッドに横たわっていると両親と姉がやって来た。父はすでに泣いている。姉に会えてよかった。4人で看護師さんに連れられて行く。

父が泣いているから「大丈夫だって」と言うと、姉が「(お父さんのことは)任せて。自分のことだけ考えていればいいから」と言ってくれる。

オペ室に入ると今日の手術の内容を自分で言うように言われる。事細かにどこをどうするか(子宮、両側卵管、右卵巣、右腸骨付近リンパ節切除、その他リンパ節3カ所生検、左卵巣移動)と答えると「素晴らしい!」と言われる。もっと簡単に答えてよかったみたいだ。

硬膜外麻酔をする。背中を丸めて中に管を入れ麻酔をする。術後3日間はこの管から鎮痛薬が注入されることになる。その後、点滴針が刺される。痛い。やり直して仰向けになる。ドラマでお馴染みの全身麻酔の光景。一瞬で意識がなくなる。

「橘さん」。名前を呼ばれてぱちりと目を覚ます。ひどい激痛と吐き気に襲われる。両親と姉がいたがそれどころではない痛み。一言、「痛い。気持ちが悪い」

母が「まだ意識が朦朧としているのね」と遠くで言っているが、麻酔が覚めたこのときから何もかもすべて記憶している。意識だけはクリアだった。(治療生活ブログ「新規事業ほぼ日記、または日報」より)