妻と共にがんと闘った追憶の日々

君を夏の日にたとえようか 第15回

編集●「がんサポート」編集部
(2021年3月)

架矢 恭一郎さん(歯科医師)

かや きょういちろう 1984年国立大学歯学部卒。1988年同大学院口腔外科第一終了。歯学博士。米国W. Alton Jones細胞生物学研究所客員研究員。1989年国立大学歯学部付属病院医員。国立大学歯学部文部教官助手(口腔外科学第一講座)を経て、1997年Y病院勤務。1999年K歯科医院開院、現在に至る

 

 

顕と昂へ

君を夏の日にたとえようか。
 いや、君の方がずっと美しく、おだやかだ。
                ――ウィリアム・シェイクスピア

「今日は調子がよい。2つの銀行を回ったあと、デパートに足を延ばして、喪のときやハレのときに使える黒のカバンを買う。ふらふらして疲れた。薬をいつ飲むかより、むかむかなどは体調による! よく寝て体調がよければ、便も出るし、むかむかも少ない。規則正しい生活をすることが大事!」

「甲状腺がんの定期検診に行かなくてはならないが、朝眠くて車はムリ。前の晩パパがうるさくしゃべる。もう勘弁してほしい。興奮して夜2日ほど眠れない。夕方3時過ぎにお昼を食べて、目が覚めたら6時半。疲れたんだなぁ」

2016年1月27日。「顕の誕生日! 26歳! おめでとう。疲れやすい」(恭子の闘病記録)

恭子の闘病記録が一端ここで途切れている。何故、恭子がここで筆を折ったのかはわからない。その後も恭子の生活はこれまでとあまり変わらずに2月の半ばまで続けられるのに……。そうして、2月23日の緊急入院、24日の緊急手術で、一命をとりとめる。闘病記録も3月8日から再開される。

気分はずぶずぶ沈んでいく

1月30日、土曜日。合唱団の武田さんの奥さん、幸子さんが長年続けられているモーツァルトを弾く演奏会がある喫茶店であった。恭子と2人して出掛けた。早くに着き過ぎて時間があったので、うどん屋で夕飯をとることにした。私は食欲がわかなかったので、ビールの力を借りることにした。恭子には馴染みのない街で運転はできそうにないが、演奏会が終わる頃には酒も醒めているだろうと思って、アルコールの力を借りることにしたのだ。

「パパは機嫌が悪そうだね」と恭子がいう。「そんなことないよ」と私は力なく答えながら、悪いのは機嫌ではなくて、気分がすぐれないんだよと心のなかで呟いていた。2人とも表情は硬く、笑顔すら出ない。

私は相当に落ち込んでいたのだ。理由はわからない。私は依然として恭子は幸運なロングタームなのだと信じ切っていた。しかし、こころのどこかで別の可能性を恐れる気持ちが、恭子の強運に影が差してきているのではないかという恐れが、蟒蛇(うわばみ)がその厭らしい鎌首をもたげるように、私のこころの深いところで芽生え始めていたのかも知れない。私はその不可抗力の不愉快な思いを振り払うために苦戦していたのだろう。

私は明らかに鬱的になっていた。そのことが恭子には不機嫌と映って、夫婦の大切な信頼関係が揺らいでいたのだ。こんな大切なときに、と自分を責めれば責めるほど、私の気分は底なし沼に足を取られるようにずぶずぶと沈み込んでいったのだ。

2月初旬のスミレ

2月最初の10日間ほどを恭子はこれまでと変わらず、声楽のレッスンを受けたり、2人のお気に入りの画廊の展示会に一緒に出掛けたり、女声3部の練習をしたり、気のおけない友人とランチしたりして過ごしている。

2月11日。建国記念日の合唱団の練習は、翌々日から長男の卒業制作展示会を見に京都に出かけるのに備えて、私だけが参加することになった。これまでにない初めてのパターンだった。合唱団の練習には夫婦2人していつも参加してきたのに……。それほどまでに恭子は疲労困憊していたのだ。

恭子の左乳房の皮膚転移巣は枯れ切っていた。TS-1が非常によく効いている。そのスケッチと写真撮影は2月17日が最後である。同じ日に私は恭子の小脳機能をチェックする理学検査を行っている。問題ない。そうして、顔面神経麻痺のチェックも。

顔面神経麻痺は髄膜播種(ずいまくはしゅ)で早期に現れることのある脳神経の異常だ。私がそのとき、髄膜播種を恐れていたことの証(あかし)であるが、その当時の自分の心境をあまりはっきりと覚えていない。すでに私は恭子が幸運なロングタームではないかも知れないと疑い始めていたのだろうか……。

第六章 水頭症・髄膜播種

13.水頭症‐緊急入院・V-Pシャント術

まるで老人の認知症のように

あとになって考えてみれば、兆候は長男の卒業制作展を見に京都に行った2月14日の時点で、すでに認められていたのだ。恭子になるべく負担を掛けないように、京都市内の移動はすべてタクシーと決めていたが、まったく歩かないというわけにもいかない。

清水の三寧坂辺りを長男と3人で歩いていたときにも、恭子はよろけたり、ふらふらして私や長男にしょっちゅうしがみついていた。よたよた歩く母親を見て、長男はどう感じているのだろうかと気になった。おどけているの半分くらいにとってくれればいいが、と。

2月に入ってごろごろ寝てばかりいることが多かった恭子。京都に長男に会いに行く4日ほど前に仲良しのランチ仲間と昼食をとったあとも、これまでにないほど疲れがひどそうだった。そういえば、朝起きてこられないこともあって、私は1人で朝食をとったりしたのに、おかしいと思いながら薬のせいなのだろうという考えに必死にしがみついていた。そのほかの可能性を私の脳が受け入れることを拒否していた、としか考えられない。

京都に行けるのだろうかと心配したが、頑として「行くに決まっているでしょ」という。新幹線の中で「大丈夫?」と私が声をかけても、目を閉じって小さく頷くだけだった。それでも、京都駅に着くと途端にシャキッとして、長男と久しぶりに会ったときは、本当に嬉しそうで友だち同士のようにはしゃいでいた。

京都から帰ると、横になっていることが当たり前のようになった。尋常ではないと素人にだってわかる。

2月19日、金曜日。恭子は1人で山崎先生の診察を受けに行った。先生は血液検査の結果を見ただけで、「問題ないと言われた」と恭子から電話が入る。

「いつもいつも寝てばかりいて、疲れやすいのが普通ではないと先生にちゃんと伝えなさいと言ったでしょ?」と私がいうと、「何を言えばいいかわからなかったんだもの……」と答える。なんと言えばいいかわからないということが、すでに尋常ではない。

私は取り敢えず恭子に病院で待機しているように伝えて、谷本先生に電話を入れた。

「まるで老人の呆けのようになっているということですね?」と谷本先生に言われた。

「すぐに奥様に来ていただいてください、思い当たる節があります。それから、先生もお昼休みにはいらしてもらわないと」と、すぐに反応してくれた。

山崎先生の病院から家にもどろうとする恭子をなんとか制して、谷本先生のクリニックに行くように説得した。

谷本先生のクリニックで、恭子はパニックになって「どうやって私に電話をかけたらいいかわからない」というCメールを送ってきた。私はクリニックの看護師にすぐ電話をして恭子の様子を伝え、ケアを依頼した。恭子が電話をかけられないのが、脳の高次機能に問題が生じているのか、パニックになってあわててしまったのか、私は測りかねていた。