妻と共にがんと闘った追憶の日々

君を夏の日にたとえようか 第17回

編集●「がんサポート」編集部
(2021年5月)

架矢 恭一郎さん(歯科医師)

かや きょういちろう 1984年国立大学歯学部卒。1988年同大学院口腔外科第一終了。歯学博士。米国W. Alton Jones細胞生物学研究所客員研究員。1989年国立大学歯学部付属病院医員。国立大学歯学部文部教官助手(口腔外科学第一講座)を経て、1997年Y病院勤務。1999年K歯科医院開院、現在に至る

 

 

顕と昂へ

君を夏の日にたとえようか。
 いや、君の方がずっと美しく、おだやかだ。
                ――ウィリアム・シェイクスピア

第六章 水頭症・髄膜播種

14.髄膜播種‐3次化学療法

3月、庭のホトケノザ

恭子が3月8日(2016年)に闘病記録を再開してくれた。勿論、のちになってわかったことだが。

退院後の恭子は、よく眠った。しかし、食欲もありおおむね容体も安定して、次第に目力も回復して行った。しっかりとした口調で両親とよくおしゃべりをした。起きている時間も徐々に長くなり、身の回りのちょっとしたことをゆっくりとするようにもなって行った。ただ、足元はおぼつかなく、ふらふらと部屋の中を伝い歩きした。

私は意図的に、若い新婚のころのアルバムや、息子たちが生まれたばかりの頃や子育て中のビデオを見せた。夕食を摂りながら、そんなビデオを眺めて両親と歓声すら上げて、微笑ましい光景にくぎづけになった。明るい気持ちになれるものに飢えていたし、昔の幸福を思い出して、記憶にとどめ覚えていてほしかった。私たちは幸せだったのだと。

3月13日に父親が四国に帰って行った。「淋しい」と恭子。久しぶりに港まで、父を見送るドライブをして、帰りに恭子に新調した眼鏡を受け取り、スーパーで買い物までした。

これから私と恭子に残された時間が1カ月だとしたら、私にできること……。

恭子が横になって、日中のほとんどを過ごす居間に花を絶やさないこと。恭子からたびたび名前を聞いていて仲の良かった友人やとても身近に感じている知人になるべくたくさん会わせてあげること。これは当初、誰かに会うための気力と体力が恭子にまだ充分回復していなかったことや、誰かが来るとなると部屋を片づけたり掃除をしたりと両親が過度に気をまわし過ぎることのために、あまり上手くはいかなかったのだけれど。

それから、もし万一のことが恭子に起こったときに、連絡のためのリストアップと電話番号の確認。つらい作業だった。もっとつらかったのは、葬儀の必要が生じたときの大まかな心構えをざっくり葬儀社から聞き知っておくほうが慌てずに済む、というアドバイスをくれた知人の言に従って、こっそり葬儀社に赴いたことだ。

自分は何をしているのかと、己の冷酷さを責めた。自責の念は強かった。恭子に隠れて、裏切ってこそこそしていると思った。1カ月はとてつもなく短く、人間が最期になすべき大切な優先順位をメチャメチャに狂わせてしまう。せめて、「奥さんに、残されている時間はあまり長くはありません。月の単位で考えてください」程度の曖昧な言い方をしてくれていれば……。私は、焦っていた。疲弊して、ふらふらだったが、恭子のために倒れてなんかはいられない。

「わたし、頑張りますからよろしくお願いします」

母が帰って行ったのが3月17日。その日、谷本先生は恭子のこれまでの経過をかいつまんで母親に説明する役を買って出てくださった。それは、オブラートに包まれた経過の説明だったが、よく考えれば実態がわかるという巧妙なものだった。母にはよくわからなかったろう、それを意図しての先生の説明なのだから。

それに続いて、谷本先生から新たな治療の提案があった。私が全脳照射の放射線治療の妥当性について尋ねたことへの返答であった。先生は、恭子が先生の部屋に入っていったとき、元気そうにしているのに少し驚かれたように私には見えた。

恭子の全身状態が順調に回復しているところに、つまりかろうじて踏みとどまっているところに全脳照射をしたら、坂道を転げるように後ろから背中を押してしまうことになる場合があり得るので、と放射線治療には消極的な見解を示された。

そのうえで、提案されたのがタキソール(一般名パクリタキセル)+アバスチン(同ベバシズマブ)の治療だった。山崎先生が退院のときに提示された化学療法だ。抗がん薬と分子標的薬の組み合わせ。

先生は、恭子には「小脳の治療した辺りに白い筋がたくさん見えるので治療したほうがよいでしょう」と説明してくださった。髄膜播種(ずいまくはしゅ)のMRI所見だった。勿論、そのことばを恭子の前で口にされることはなかった。

「明日、山崎先生の外来受診があるので、考えてみます」と私たちは答えた。

「期待できるのはアバスチンのほうですから、タキソールを極力減らして全身的な負担や副作用を軽くしていただくようにお願いしてみてはどうですか」と谷本先生。

夜、恭子は口数が少なかった。ただ、ポツリと「治らないのがわかっているのに治療するのは、もう嫌」と静かに言った。私は、返すことばがなかった。恭子を黙って抱きかかえた。恭子の考えを最優先すべきだと思った。私から誘導してはいけない。

「せっかく生えそろった髪が、また抜けるのよね……」

翌3月18日の山崎先生の診察には、私も同行した。昨夜、「恭子はタキソールが嫌いだから、タキソールをほかの抗がん薬に代えてもらうというのはダメですか?」と谷本先生にメールしたら、「そんなことでは山崎先生は動いてはくれないだろうし、そこを頑張らないと次の新たな展開は望めませんよ」との返答だった。

車の中でもやはり恭子は口数少なく、何かを反芻しながら考え込んでいる風だった。乳腺外科の待合室でも私が話しかけようとするのを、黙ったままで明らかに拒んでいた。恭子の順番の直前、「ママが思うように決めればいいからね。嫌なら止めてもいいんだよ」という私のことばにも耳を貸そうともせず、表情は硬かった。

診察室に入って山崎先生の前に出ると、恭子は豹変した。

「先生、わたし頑張りますからよろしくお願いします」と、朗らかに言い切った。恭子はやはり優等生なんだと、私自身が勝手に治療を希望していることをむしろ詫びたいような気持になった。これまでは、恭子の病状を噛み砕いて私が恭子に説明して、だからこの治療が最適だよ、希望はあるよ、となんでも包み隠さずに2人でやってきたのだ。今回は違う。恭子には説明できない。口が裂けても髄膜播種ということばを発する訳にはいかないのだ。

「先生、タキソールの量は極力少なくしてはいただけませんか?」と私が尋ねると、先生は「了解です」と答えて下さった。

「来週の木曜から始めましょう」

1週目がタキソール+アバスチン、2週目はタキソールのみ、3週目はタキソール+アバスチン。これで1クール。1週間休んで、次のクールを繰り返す。通院にも骨が折れるし、ハードな治療になる。

「明日まで生きてくれ!」と私は願う

アバスチンには私と浅からぬ因縁があった。私が結婚したばかりの恭子を伴ってアメリカ、ニューヨーク州の北部レークプラシッドにある小さな細胞生物学研究所に留学したのは1987~8年のことだった。そこで私はあるがん細胞株の培養液から新たな細胞増殖因子を精製する研究をしていた。2種類の新たな増殖因子の候補があった。その1つがなんと血管内皮細胞増殖因子だったのだ。半年、1年の差でその発見と精製は別のグループに先を越されてしまったが、アバスチンはその血管内皮細胞増殖因子に対する抗体なのだ。

がん細胞が増殖するために必要な栄養を供給する血管新生を阻害するからがん細胞は栄養が摂れずダメージを受けるが、造影MRIの造影効果にも影響は出るから画像診断への影響も大きいだろうと私は直ぐに思った。

留学時代の恭子

留学時代の私

帰りの車の中で、恭子が言った。

「わたし、治療するために生きているみたい。治らないのがわかりきっている治療はこれで終わりにしたい」

「いいんだよ、それで。恭子の思うようにしていいんだよ」と私は、やっとのことで答えた。さすがの恭子も表情は硬く、暗かった。

これでよかったのだろうか? と私は答えのない問いを自分に投げかけていた。やがて、恭子は助手席でうつらうつらして、寝息を立て始めた。時折、その寝顔を盗み見しながら、私は詫びたいような、暗澹たる気持ちで車を走らせていた。私は間違ったことをしていると思っていた。今回の治療が恭子のためになるかどうかという決断を誤ったというのではない。恭子に本当のことが言えずにいることが間違いだとわかりきっていたのだ。厳しい会話でもすべてを話して、恭子に選択する自由を与えるべきだと。

しかし、医者があと1カ月の命だと、2週間ばかり前に言ったなどとは話せない。それでも、そこをぼやかしても恭子に本当のことを伝えるべきなのだと、頭ではわかっても、行動に移すことができなかった。頭のよい人だから、恭子は私の考えていることなどちゃんとわかっているに違いない。それなのに私が何も言わないことに苛立っているのだと、私は気がついた。

2人の生活が戻ってきた。天気のいい日曜日。午前中に布団を干して、昼食には恭子が蕎麦を湯がいてくれてかけ蕎麦にしてもらった。美味しかった。

午後は恭子の古い恩人が見舞いに来てくれて、長い時間話し込んでいた。恭子はケラケラ笑いながら、昔話に花を咲かせていた。夕食は寿司屋に行った。恭子の足元はおぼつかないが、小さな幸せを感じられる1日だってある。「忙しいけど楽しい1日だった」と恭子が闘病記録に書いている。

3月21日、春分の日。「髪を互いに切る。なんとなく、ゆっくり」(恭子の闘病記録)

穏やかな生活。朝、ちゃんと起きて一緒に朝食。午前中、部屋の片づけ。恭子は芋とリンゴをかりかりに焼いて自分のおやつを作る。昼はおじや。布団を干して、お互いに髪を切り合う。また抗がん薬で髪が抜けるから恭子は少し短くしておきたいのだ。長い髪が抜けるのは、始末が悪い。

昼過ぎて、恭子は仮眠を取る。3時ころに起きて、洗濯物をたたんで、また、仮眠。ダメかな、と私は一瞬思う。でも、夕刻には起き出してミンチを炒めてくれて、夕食を普通に摂れた。明日、長男に印鑑証明を送ることになっている。引っ越しの準備で、忙殺されているらしい。「明日までは、生きてくれ!」と私は願う。その繰り返しだ。