妻と共にがんと闘った追憶の日々

君を夏の日にたとえようか 第24回

編集●「がんサポート」編集部
(2021年12月)

架矢 恭一郎さん(歯科医師)

かや きょういちろう 1984年国立大学歯学部卒。1988年同大学院口腔外科第一終了。歯学博士。米国W. Alton Jones細胞生物学研究所客員研究員。1989年国立大学歯学部付属病院医員。国立大学歯学部文部教官助手(口腔外科学第一講座)を経て、1997年Y病院勤務。1999年K歯科医院開院、現在に至る

 

 

顕と昂へ

君を夏の日にたとえようか。
 いや、君の方がずっと美しく、おだやかだ。
                ――ウィリアム・シェイクスピア

万事休す

病院近くの道端に咲くアレチマツヨイグサ

7月16日、土曜日。午後8時を回ったところだ。私は食事を終えて、焼酎でほろ酔い。静かな、穏やかな、ふたりっきりの夜。外は夏の夕暮れ、人々が暑い日中を乗り切ってほっと一息ついているころだろう。この、私たちの別荘は、日常からは切り離されている。

恭子は脳の思考力が緩慢に、しかし、確実に壊されて、まるでモルヒネでも使用して鎮静のかかったかのような、のっそりとろれつの回らないしゃべり方になってきた。脳の破壊が神仏の加護でエンドルフィンでも出すようにいい塩梅に起こっているように思われるほど、悲しいほどに、無垢な幼子に戻っていくみたいだ。恭子は穏やかではあるが茫漠とした顔つきになってきた。悲しい。可哀想で悲しい。穏やかで幸福そうなのに、……だからこそ悲しい。

永井さんから、看取った経験を重ねた方にしかわからない配慮の行き届いた品々をいただく。一度洗濯を済ませたバスタオル、フェイスタオル、風呂用の薄手のタオル、野菜にドレッシング。風呂の日にはバスタオルを何枚も使うから、いくらあってもいいと知っておられるのだ。

脳外科の浅間先生が飄々と恭子の病室に入って来られて、恭子にひとことふたこと声を掛けられて、様子をちらりとご覧になって帰られる。帰りがけのドアのところで、独り言ちるように、「抗がん薬を使うかのう」とぼそりと言って立ち去って行かれた。

7月20日。恭子は寝てばかりいる。傾眠傾向だ。中谷先生が私に恭子の血液データを見せて下さる。肝臓にやや負担のかかっているようにみえるのはステロイドのせいで、おおむね問題のないデータだから、「明日からゼローダ(一般名カペシタビン)を服用していただきましょう」と言ってくれる。

最後の頼みの綱、恭子への抗がん薬の投与は、しかし、半日であっけなく中止となる。朝、ゼローダを服用した日の午後2回ほど軟便の下痢があって、「ゼローダのせいかも知れないから」と中止されたのだ。

下痢は午後に2度あったきりで治まったけれど、中谷先生は私を部屋に呼ばれ、「決して無理は致しませんので」と言われて、中止を宣言される。これ以上は、私からもう何も言えない。抗がん薬を断念せざるを得ない。万事休す。

さっちゃんは遊びに来てくれている

友人の差し入れの杏子

ここでは、ちょっとした判断のミスが直に患者の死というかたちをとって跳ね返ってくる。当然のことだ。予後不良な望みのない人々が、より良く死を迎えるための施設なのだから。私はこれほど患者に起こった些細なことが医師を含めたすべてのスタッフに即刻に伝わり、的確に共有される病棟を知らない。感謝すべきなのだ、抗がん薬を一度でも試していただけたことを。

7月22日。軟便で午後3度ほどトイレが間に合わなくて、ベッドサイドにポータブルトイレが用意される。トイレの前の洗面所の鏡に向かっての「あかんべー」はできなくなってしまった。永井さんが前開きの木綿のネグリジェを2組買って来てくださる。そのほうが都合のよい時期が近づいたとわかっておられるのだ。確かに好都合。ポータブルに座らせて用をたすには、ズボンを下ろす手間がない、おむつだけ下げればいいから。着替えさせるにも、体を拭いたりするにも便利だから……。

7月24日、日曜日。その朝は、恭子と私のふたりっきりだった。午前7時、それは私が恭子をベッドサイドのポータブルトイレでおしっこをさせた直後に起こった。

向かい合わせに抱きかかえるようにして便座から立ちあがらせた途端に、恭子がエビのように自分の頭を後方に反り返らせた。帽子がすっぽ抜けて、薄くなった頭髪の一部、やや長めの髪を振り乱しながら。私は危うく恭子を抱きとめた。白目を剥いて、顔がみるみる緑色になった。最初、私には何が起こったのかわからなかった。息が止まるのかと一瞬思って、「しまった! 両親は間に合わないか」という思いが脳裏をかすめた。

一呼吸おいて、「違う! これは痙攣発作だ」と思った。とっさに東洋医学に詳しい中川先生から、意識喪失が起こったときにといつか教えてもらった通りをやった。左手1本で恭子の反りかえったからだを支え、右手の人差し指の爪で人中(じんちゅう)のツボを力任せに押した。

「い・た・い」とうめき声をあげたかと思うと、恭子の顔面に血の気が回復して、全身の硬直がとれた。恭子を抱きしめ、からだの向きを90度変えて、ベッドに寝かせた。呼び出しのボタンを押して看護師さんに報告した。駆けつけた看護師さんと暫く様子をみたが、痙攣発作の残存も再燃する気配もなかった。

その後はケロリとして、夕飯には中華料理を買ってきてみんなで食べた。恭子は八宝菜が美味しい美味しいといって食べてくれる。食べることが好きな人なのだから、喜んで食べてくれれば本望だ。

子どもたちはほとんどの週末に、新幹線にそれぞれ2時間と4時間ばかり乗って恭子のもとに帰ってくれる。有難くも、頼もしい。

入れ替わり立ち代わり、見舞いの方々が来てくださる。さっちゃんは、淡々と恭子に会いに来る。見舞いではない。どちらかというと、遊びに来てくれているのだ。友だちだから当たり前だ。恭子が「あそぼーね」と言っていたのだから当たり前だ。

最期に聞いた意味のある恭子の声

散歩道で見つけたツタバウンラン

両親と私の目下の最重要課題は、恭子にいかにしてご飯をしっかり食べさせるかということだ。手を代え、品を変え。眠るばかりで目を覚まさないときは、配膳車がすっかり片づけられたのちに、やっと恭子が口をあけてくれることもしばしばだ。

「頑張って食べて!」とみんながいうから、恭子は仕方なしに頑張って食べているのかも知れないと感じるときがある。美味しいとか、食べたいとかいうのではなく、自分の好きな人たちが食べてくれと懇願するものだから、一生懸命食べているのではないかと……。

7月25日。買ってきたアナゴ弁当を美味しい美味しいと食べる。これは、本当に食べたくて美味しくて食べたのかも知れない。

7月26日。恭子のこころの意識は朝もやのようにぼんやりと覚醒したり、夕闇のように閉ざされたりを気まぐれに繰り返している。私が恭子の紙おむつをおろしてポータブルトイレに座らせるやいなや、恭子は勢いよく排尿する。きれいに拭いて、おむつを引き上げ、排尿後にベッドに横たわらせるときの「ああー」という満足げなため息。あたかも熱い湯船に浸かったときに図らずも漏らすため息のように。

私は恭子より背が高いが、恭子をポータブルトイレに腰掛けさせるとき、お互いが抱き合って顔と顔が同じ高さにくる一瞬がある。その日、その高さにお互いの顔が向き合った瞬間に、恭子が私の首筋に優しくやさしく口づけをしてくれる。まるで祈るかのように。ピエタのごとく、まるで十字架から降ろされたキリストをかき抱く慈愛に満ちたマリアのように……。私はいたく感動する。こころが温かく幸福感を覚える。

しかし、この行為には後日譚があって、同じことを恭子にしてもらった看護師さんがあったそうな。恭子の慈愛は私ひとりに向けれたものか、すべての人々に向けられたものか? どちらでもいい。どちらにしても恭子のこころの純真な愛が、思考や意識を超えて溢れ出ているのだから。

恭子の頭蓋の中の乳がん細胞は己が生き延びながらにして、恭子の息の根を止めるほど恭子の脳を破壊し尽くすことはできない。恭子の呼吸が止まってしまえば、がん細胞といえど酸素の供給が絶たれ、死なねばならないのだ。まだ恭子のこころには記憶や思考や感情の痕跡が残っていて、ふとした瞬間にその活動が息を吹き返すことがある。

7月27日。ふたりっきりの夜、恭子の意識がふうっと立ち返ったときに、レークプラシッドで過ごした私たちの新婚の頃の写真を見せた。

2人だけの異国での新婚生活は心細くはあったが、もちろん私たちにとってかけがえのない幸福な記憶である。そのときの写真の1枚を恭子に見せてみたのだ。恭子は力ない指先でその写真を弱々しく指し示しながら、「若い!」とささやくようなひそやかな声で言った。今生私の最期に聞いた意味のわかる恭子の声だった。