できないことを嘆くより、できたことを喜ぶ――挑戦を続けていきたい 仙骨巨細胞腫による2度の手術を乗り越え、3度のパラリンピック出場 アテネ/北京/ロンドンパラリンピック卓球日本代表選手・別所キミヱさん

取材・文●増山育子
発行:2013年7月
更新:2018年10月

  
別所キミヱさん

べっしょ きみえ
1947年広島県生まれ。1989年に仙骨巨細胞腫を発症。足の自由を失い、車いす生活となる。45歳のときに卓球に出会い、52歳で日本代表初選出。アテネ(2004)/北京(2008)/ロンドン(2012)パラリンピック代表。アジア選手権(2013)、世界選手権(2014)、リオパラリンピック(2016)出場も視野に入れている。世界ランキング5位(2013年4月1日現在)

治療がやっかいな腫瘍の1つとされる仙骨巨細胞腫。過酷な手術を乗り越え、車いすの自分を受け入れ、パラリンピック出場を果たしたアスリートがいる。逆境からも立ち上がり、輝き続ける源とは。

【別所さんの経過】

1989年 4月 体の異変を自覚
腰や臀部、脚の痛みと痺れのため、近医や県立病院を受診。病名不明
11月 神戸労災病院入院。仙骨巨細胞腫と確定診断
1990年 1月 1回目の外科手術
11月 再発・再入院
1991年 1月 2回目の外科手術。車いす生活となる
現在 肺転移がないか確認するため、年1回の通院による経過観察中

ロンドンパラリンピック 人生の金メダル

試合では真っ向勝負(USオープン2011年。同大会3連覇)

2012年夏のロンドン。オリンピックにくらべてパラリンピックは観客が少ないのが常だ。しかし、パラリンピック発祥の地ロンドンは違った。どの国のどの選手にも惜しみなく賞賛が送られ、会場は歓声と拍手に包まれていた。

卓球の日本代表、別所キミヱさんもひときわ大きな声援を受けたひとりだ。日本人選手最高齢の64歳。アテネ、北京に続き3大会目の出場で、障害者卓球の世界ランキング5位の実力者。ばっちりきめたヘアスタイルとメイク、ゴールドに日の丸のネイル、蝶の髪飾り。別所さん曰く「鬼の形相」で挑む真っ向勝負。その存在感は圧倒的だ。

日本選手団と(2011年中国大会)

「私には再発や転移の不安や、年齢というハンディがあったからこそ、死んでも悔いはないと言えるくらい必死で努力してきました。『もう後はない、来るなら来い!』という感じで夢の舞台に立ったのです」

別所さんは初戦でアルゼンチン選手に快勝し、第2試合を迎えた。対戦相手であるヨルダンの選手は、北京パラリンピックで、リードしながら逆転負けをした宿敵だ。雪辱を果たそうと勢い込んで臨んだが、結果はストレート負け。最終成績は1勝1敗で5位入賞となった。

「メダルは取れなかったけれど、いろんなことに挑戦して、意気込んでいった私はすごかったと思う。自分で自分を誇りに思う。遠征費やコーチ代を稼ぐため、仕事をしながらの挑戦だった。今振り返っても、我ながらすごいエネルギー。だから、私の心の中には金メダルがある。私の人生に対しての金メダルだ」

試練に次ぐ試練突然の別れと自身の発病

別所さんが車椅子になったのは、巨細胞腫という骨にできる腫瘍が原因だ。腫瘍は腕や脚の骨に生じることが多いが、稀に骨盤の中央に位置する仙骨にもみられる。転移はほとんどないといわれているものの、肺転移の症例が報告されており、その場合は予後が厳しくなってくる。また、再発すると悪性度が高くなる厄介な病気だ。

「初めは座るとお尻が痛んで、近所の整形外科では坐骨神経痛と言われました。仕事をしながら通院したのですが、痛みはだんだん強くなるししびれも出てきて、歩けなくなりました」

そこで激痛に歯を食いしばりながら県立病院を受診し、入院するも病名はわからない。神戸労災病院に転院してやっと診断がついた。1989年、42歳のときだった。

実はその2年前、別所さんのご主人が急逝していた。激しい頭痛を訴え病院に行ったにもかかわらず、きちんと治療を受けられないまま帰らぬ人となったのである。

「『しっかり治療してください』と言えばよかった……」

自責の念と悲しみに沈む別所さんは、それでも10代のふたりの息子さんとの生活のために仕事を始め、失意の底から這い上がりつつあった。そんな矢先、今度は自分の病という試練が立ちはだかったのだ。

モルヒネが待てない! 痛みと手術と再発と

治療方法は、腫瘍のある仙骨を切り取る手術しかない。別所さんは神戸労災病院に入院。1990年1月、主治医である整形外科の裏辻雅章さんを中心に、外科や麻酔科がチームを組み、26時間にもおよぶ大手術が実施された。

この頃、別所さんに耐えがたい苦しみをもたらしていた痛みは、6時間おきに投与していたモルヒネが1時間くらいしか効かないほどになっていた。「死んでもいいからモルヒネを!」と、1日に何度も何度も訴えた経験を思い出す。別所さんは「がんの痛みを取るのは大切」と強調する。

「6時間ごとに1日4回のモルヒネ投与。それでは朝まで待てない。眠れないのです。私の痛みを見ていた息子たちとも、『もし次に再発したら、延命より除痛を優先しよう』と話し合っていたくらいでした」

手術後も痛みは残り鎮痛薬が手放せなかったが、退院して数カ月間は歩けていた。しかし、痛みが日増しに強くなってきて再び入院。1990年11月には、再発を告げられた。

そして年明け早々に残した仙骨をすべて取り、骨盤を支えるために腓骨(脛の外側の細い骨)を切って移植、金属プレートを入れるという前回よりもさらに大がかりな34時間におよぶ大手術が行われた。

「2回目の手術は心も体も本当につらかったですね。胸から膝までギプスで固定され、自分ではまったく動けない状態が半年間続いたのですから。よく我慢したなぁと自分でも思います」

退院して帰宅しても5分と座っていられなかった。食事のときに5分座り、好きな手芸や編み物をするのに5分座る。小物を作るために10分、15分と座る時間が延びていき、3カ月後にようやく1時間座れるようになった。弱った体は、遅々としてだが回復に向かう一方、2回目の手術で別所さんは足の自由を失った。

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