胃がんステージⅣ、余命1年と宣告された男の奇跡の回復の秘密とは

タキソテール+TS-1の抗がん薬治療728日から完治への道のり ステージⅣ胃がん闘病記 第2回

編集●「がんサポート」編集部
(2018年11月)

原島文隆さん

はらしま ふみたか 1951年群馬県生まれ。数社の職歴を経て2016年65歳で定年退社。一男二女を育て上げ、孫を4人授かる。趣味のゴルフは、初心者同様だが健康第一と考え日々頑張っている

<病歴>
2003年 長年患っている尿路結石のレーザー治療を受ける
2004年4月7日 地元の総合病院で「グループ5」に属する胃がんが発見される。手術は不可能と告げられ、抗がん薬治療の説明を受ける
2004年4月8日 紹介資料を持って群馬県立がんセンター(以下、がんセンター)へ。ステージⅣの胃がんと診断される
2004年4月9日 タキソテール+TS-1の抗がん薬治療が始まる
2006年3月 26クール・728日に及ぶ抗がん薬治療の末、腫瘍消失
2010年12月 がんセンターの担当医から完治を伝えられる

胃に腫瘍が発見されステージⅣの診断を受け、手術が出来ない旨、告げられた原島さんが抗がん薬治療を開始した。26クール・728日に及ぶその治療の副作用は想像をはるかに超えるものだった。

体に異変が起き始めた

抗がん薬の臨床試験の認可が下り、いよいよ1クール目の抗がん薬治療が始まったが、それからわずか数日後に、あることが起こった。それは、抗がん薬治療前に説明を受けた注意事項(副作用等)に書かれてあったことが、現実となり、私の体に異変が起き始めていた。

今まで普通に食べることが出来た病院食が、食べたくないようになってきた。味覚の変化が現れたというか、何を食べても旨く感じられなくなり、食欲不振の状態になった。その後、食べると何故か気持ちが悪くなり、「吐き気」を感じるようになっていった。

私はがんに負けてはいけないと思い、そのためには何としても体力をつけねばと、病院食を味わうこともなく、つらい吐き気に襲われながらも、必死に食事を口に入れていた。

ある時はご飯を小さく丸めて、お茶などと一緒に喉に流し込んだりもした。とにかく、自分の口で食事をし、自分の力で食べ物を体の中に入れるということを最優先に考えた。

私のがんは胃の中央部に大きくドカンとあったため、食事をしてもさほどムカつき感はなかった。仮に、がんが食道側、あるいは十二指腸側にあったら、大きさからいって間違いなく食べ物は食道を通らなかっただろうと、医師からも言われていた。これは、私にとってとても大きな「不幸中の幸い」であった。

抗がん薬の副作用が体に出始めたとき、食事がままならない状態のときでも病院の階段を上がったり下ったりして、体力を維持することに気をつけていた。とにかく、何が良いか悪いかよりも、生きるために必死だった。

しっかり食事を摂るようにして、体力をつけることに自分なりに専念したが、自分の思いとは裏腹に、体重はこの時期減る一方だった。私の身長は175㎝で数カ月前までは75㎏あった体重が58㎏まで減ってしまい、鏡に映る自分の姿はガリガリだった。

そんなこんなで長いようで短いような1クール、14日間の抗がん薬治療が終わった。本当に、ほっとした気持ちになった。後は、検査をして良い結果が出ることを祈るだけだった。

「命尽きるとも精一杯生きるのみ」

1クールの抗がん薬治療を何とか終え、検査の結果は「1クール目の治療としては、良いほうです」と主治医から言われ、まずは一安心した。

その後、休薬期間に入り、胃がんの症状も安定していたため、自宅療養の許可が出た。

久しぶりに家に帰ると、家族や兄弟、知人たちが、がんに効くと言われている、または思われているものを次々に持って来てくれた。健康食品、サプリメント、野菜等々。本当にありがたいものだと感謝した。私は頂いたもの全てを体の中に入れた。気負いはまったくなかった。

「何時、命尽きるとも精一杯生きるのみ」。私の強い気持ちだった。

私は抗がん薬治療と末期の胃がんに負けないように、体力を維持することに心を集中して日々を送った。とにかく、生きるためにありとあらゆる方法を採り、ご飯はたとえ食欲がなくてもゴルフボール大にして水やお茶で流し込んででも食べていた。

味わうための食事ではなく、生きるための食事を繰り返し摂っていた。自分自身の命を守ためには、自分で出来ることは全て自分で決めなくてはいけない。がんとの闘いはそんな甘いものではない。先の見えない戦闘なのだから。

抗がん薬の副作用がいよいよ牙をむき出して来た

14日間の休薬期間も終わり、2クール目の抗がん薬治療を行うために、再びがんセンターに入院した。この頃は吐き気の症状は落ち着いていたものの、味覚の異変はずっと続いていた。

がんセンターに入院をして、2クール目の抗がん薬治療が始まると、落ち着いていた吐き気の症状が再び起き、それに加えて今度は口の中一杯に口内炎も出来てしまい、口の中が荒れ、口を開けて鏡を見ると舌がひび割れていた。

味覚の異変に吐き気、さらには口内炎の症状まで加わったことで、2クール目からは舌まで荒れてしまい、食事などのときは口の中が沁みて本当に一苦労した。

そして、3クール目、4クール目と抗がん薬治療を進めて行くにつれ、注意事項(副作用等)に書かれていた発疹、皮膚のかゆみ等の症状が現実のこととなって現れ始めた。さらには、脱毛やその他の症状が次から次へと体のあちらこちらに現れ、抗がん薬の副作用がいよいよ牙をむき出してきた。

抗がん薬治療を受けるにあたり、主治医から副作用の説明も受け、私自身一応覚悟はしていたものの、現実には体のあちらこちらに次から次へと異変が起きてくる。これはなお一層、気持ちを強く持たなければならないと思った。そして、その後は爪まで変色してしまった。

想像をはるかに超える大変な思いをした

この頃の私は、とにかく一生懸命出来るだけ何でも食事を摂るように心掛けていたが、それでもかなり痩せてしまった。

外に出歩くにも「脱毛」という副作用で、まつ毛まで抜けてしまい、目にゴミが入りやすくなるなど、外出するにもいろいろ気を配らなくてはならなくなった。今まで、まつ毛にまで気を配るなどという生活をしたことがなかったので、この経験を通して、まつ毛の有難さを実感した。人間の体は不思議なもので、キチンと生きていく上で必要なものが、いろいろと備わっているのだと改めて思った。

さすがに頭の毛が抜けてきたときは、思い切って坊主頭にしようと考えていたが、顔や体毛は脱毛の副作用があっが、頭髪だけは薄くはなったものの何とか持ちこたえることが出来たので安心した。とにかく、抗がん薬治療の副作用には、想像をはるかに超える大変な思いをした。

この頃の体の状態ははというと、「生きる」という強い気持ちと抗がん薬治療、そして健康食品や家族、知人などの支えなど、諸々のことが功を奏した結果だと思うのだが、少しずつ病状は良くなっていった。

こうして、がんセンターに入院してから1年後の2005年5月頃には、趣味のゴルフにも行けるぐらいに回復していた。1年間休職していた職場にも復帰することになった。しかし、回復したと言っても、がん細胞が私の体から消え去ったわけではなかった。

家内に心の底から感謝した

私は、がんセンターへ入院していた頃から、数種類の健康食品をずっと摂取し続けていた。その中の1種類の健康食品は、元々私の友人が、自分のためにと購入したものだったが、体に合わないということで、残っていたものだった。

私はそれ程、効果を感じていた訳ではなかったが、友人から頂いてから1年程その健康食品を摂取し続けていた。そして、ちょうど職場復帰をした頃、その大量に頂いた健康食品がついに底を尽き始めて来たので、他に何か良い健康食品はないのかと探していた。

そんな矢先、以前新聞に入っていた折り込みチラシが家内の目に留まり、私のために役に立つかもしれないと保管してあったチラシを私に見せてくれた。

私はといえば同種の物ならどれでも同じだろうくらいの気持ちだったが、とりあえず家内と一緒に話を聞きに行ってみようということになり、お店を訪ねることにした。そのチラシのお店は、自宅から1時間くらいの所にあった。

初めて店を訪ねたとき、とても小さな店でここが本当にチラシのお店かなと思う程だった。ただ、小ぢんまりとした店頭には、至る所に花が植えられていて、とても手入れが行き届いていた。

私と家内でお店に入ると、店長さんらしい女性が奥から出て来た。私たちが事情を説明すると、快くお店の中に招き入れてくれた。私たちはカウンター越しにいろいろ説明を受けたが、その店長らしき女性の方のとても誠実な対応と真剣さを感じ、半信半疑な気持ちを抱きつつも、説明を受けた製品を購入して店を後にした。

このたった1枚のチラシがきっかけとなった出来事こそ、その後の私にとって、最大の「吉」となったように思う。友人から頂いた健康食品が終わりそうなことが、1枚のチラシに繋がり、それが新しい健康食品を摂取するキッカケとなった。

そして、この健康食品にしてから、私の体調回復速度に拍車が掛かったように感じていた。それもこれも、全て家内のお陰だと思っている。家内があの時、いつか必要になったときのためにと、チラシを取っておいてくれたから……。

家内の強い気持ちを感じ、また、心の底から感謝した。私は家内の気持ちに応えようと更なる強い気持ちを持ち始めた。

自宅から30分ほどの距離にある忍城城内で