プロミュージシャンを目指していた19歳に松果体腫瘍を発症 完治した今、父のように人を楽にしたいと鍼灸整骨院院長に

取材・文●髙橋良典
撮影●「がんサポート」編集部
発行:2020年5月
更新:2020年5月

  

宮坂龍生さん 宮坂鍼灸整骨院・院長

みやさか たつお 1993年東京都生まれ。将来はプロミュージシャンになることを夢見て高校卒義後は音楽留学をするためにロサンゼルスへ渡米。留学の最中、突如意識を失い運ばれた病院でがんが発覚。帰国後、約8ヵ月の入院を経て退院。その後、健康でいられる大切さを実感し家業でもある整体治療の道へ進んで行く。現在、宮坂鍼灸整骨院・院長(横浜市)

プロミュージシャンを目指して勇躍渡米したロサンゼルスで意識を失って倒れた宮坂龍生さんを襲ったのは数10万人に1人という難病、脳腫瘍の1つ松果体腫瘍だった。その難病を医師、家族、友人らの支えによって見事、完治にまで至った過程と現在の心境を訊いた。

音楽留学先のロスで意識を失う

バンド活動に夢中だった高校時代

宮坂龍生さんがプロミュージシャンを目指して米・ロスに旅立ったのは2012年春、19歳のときだった。

中学に入った頃からX JAPANのYOSHKIさんに憧れ同級生らとバンドを結成。ドラムを担当、同級生の家に集まりバンド練習に精を出し、高校生になってからはライブ会場を借り本格的に演奏活動を行い、益々音楽にのめり込んでいった。

高校を卒業するとすぐさまアメリカで音楽を学びたいと、ロスの音楽学校に進むことを決断する。

「両親には本気でプロミュージシャンになりたいという気持ちを伝えて、承諾してもらいました。バンド仲間には、自分がアメリカで学んだ音楽を持ち帰り、また一緒にやろう、と伝えました」

まさに、音楽一筋の青春を送っていたのだ。

ロスに渡って、語学学校に3カ月間通ったあと、音楽学校で学び始めて3カ月が過ぎた頃、疲れやだるさを感じるようになっていった。

「最初のうちは寝れば疲れやだるさも取れるだろう」と軽く考えていたが、日を追うごとに、体が鉛のように重くなっていく。また頭痛も酷(ひど)くなり、目の奥に痛みを感じるようにもなって、吐き気にも襲われるようになっていった。

「ある日、吐いた後に自分の顔を鏡で見ると、目がカメレオンのようになって、視界が二重に見えたのです」

驚いた宮坂さんは両親に電話、日本で治療するため帰国することを決め、荷物をまとめている最中に意識を失ってしまった。

2~3日して意識が戻ったが、ルームシェアしていた台湾出身の友人に荷造りを手伝ってもらっているうち、再び意識を失って倒れた。

幸運だったことは、ルームシェアの友人が意識を失った宮坂さんを担いで車で病院まで運んでくれたことだった。

「君の脳にはがんがある」と告げられる

ロスに渡って6カ月が過ぎた頃、体調に異変が

病院のベッドで目を覚ました宮坂さんは医師から「水頭症(すいとうしょう)で緊急オペをした」と告げられた。

手術を受けるには肉親の同意が必要で、病院から日本にいる両親に連絡入り、両親は宮坂さんの身に何が起こったかを知ることになる。

「そのときの通訳はルームシェァしていた友人がやってくれました。ルームメイトが日本語を話せて本当に助かりました」と宮坂さんは後に述懐する。

ここでも彼には幸運の女神が微笑んでいた。

しかし、それとは別に当時19歳の若さの宮坂さんが置かれた状況はかなり深刻なものだった。

水頭症の緊急オペをした医師から「君の脳にはがんがあるんだよ」と言われたからだ。

咄嗟(とっさ)に宮坂さんは「自分は死ぬんだろうな」と思った。

そこで医師に「自分は死ぬんでしょうか?」と訊ねると、医師は「そんなことはない、君は絶対、死なないから大丈夫だ」と言ってくれた。

この医師の言葉は、がん治療中、宮坂さんの心の支えになった。

その後、もう一度水頭症の手術が行われた。

医師からはアジア人に多い希少がんである脳の松果体(しょうかたい)腫瘍と告げられていて、この病院で帰国できる体にまで戻してから日本での治療を勧められた。

それは、がんの治療を受けるなら両親やバンド仲間が住んでいる日本で受けたいと希望していた宮坂さんにとって願ってもない申し出だった。

医療費は留学する前にAIUの保険に加入していたこともあり全額保険で賄(まかな)われた。

保険に入っていなかったらとんでもない額の治療費が請求されただろう。宮坂さんの幸運はここにもあった。

その病院には3週間入院しPE療法という抗がん薬治療を受けた。

PE療法=ブリプラチン(一般名シスプラチン)+ペプシド/ラステット(一般名エトポシド)

松果体部混合性胚細胞腫瘍という病名

その後、アメリカの病院を退院した宮坂さんだが、3週間ベッドで寝たままの状態だったため、まともに立って歩くことはできず、病気を心配してアメリカに飛んできた母親と一緒に車椅子で帰国。父親が成田空港に車で迎えに来てくれていた。

宮坂さんにとっては、アメリカ音楽留学に旅立ってわずか8カ月の無念の帰国だった。

両親は宮坂さんのアメリカでの入院中、ネットで松果体腫瘍の治療経験が豊富な医師を調べてくれていて、帰国してすぐ、その医師が勤務する自宅近くの新百合丘総合病院(川崎市)に両親と行った。

ここでも宮坂さんに幸運の女神は微笑んでいる。

それは症状を聞いた医師の堀智勝さんが「東京女子医大病院の藍原康雄小児脳外科医が松果体腫瘍の手術経験が豊富だから」と紹介状を書いてくれたことだった。

東京女子医大病院で、血液検査を行い、MRI検査を終えて外来待合室でしばらくの間待たされたあと、藍原医師は検査結果を見ながらこう告げた。

「宮坂さんの腫瘍は松果体腫瘍の中でも非常に悪性度が高く、数10万人に1人が罹るか罹らないかの病気です」

そして、松果体部混合性胚細胞腫瘍という正式な病名を知らされた。

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