回り道をしたが、ALK融合遺伝子変異ありの結果で道は開けた 全身に転移した肺腺がんステージⅣbからの生還

取材・文●髙橋良典
撮影●「がんサポート」編集部
発行:2020年9月
更新:2020年10月

  

刀根 健さん OFFICE LEELA代表

とね たけし 1966年千葉県生まれ。東京電機大学理工学部卒。大手商社を経て教育系企業に転職。心理カウンセリング資格取得コースの開発、人事部門での教育・研修制度開発を担当。その後、企業や病院におけるコミュニケーションやリーダーシップ研修を通じて2万人以上指導し、人気講師として活躍。その一方、ボクシングジムトレーナーとしてもプロボクサーの指導・育成を行ない、3名の日本ランカーを育てる。2016年9月に肺腺がんステージⅣと宣告される。翌年6月脳転移が見つかり、医師から「いつ呼吸が止まってもおかしくない」と告げられる。その闘病体験記『僕は、死なない』(SBクリエイティブ)を上梓。現在、がんからの生還体験から得た気づきを講演や執筆を通じて分かち合う活動を行っている

社員研修の一線に立って働いていた刀根健さんは、進行性非小細胞肺腺がんステージⅣの宣告を受ける。抗がん薬治療をしても1年生存率は約30%。どうしても抗がん薬治療をしたくないと、あらゆる代替医療、民間医療を試みるが、その努力も虚しく、がんは脳を始め全身に転移し、一刻を争う事態にまでなっていた。

そんな刀根さんにある福音が訪れ、そして全身にあったがんが消えていった。全身ががんに侵され医師から「いつ呼吸が止まってもおかしくない」と言われた刀根さんが、どうして生還できたのか、その奇跡の過程を訊いた。

自分ができることは全部やってみよう

がんと診断されてから食生活など自分でできることは何でもやったと語る刀根さん

2016年9月1日、刀根健さんは都内の大学病院で、進行性肺腺がんステージⅣと宣告された。発見のきっかけは、その年の3月、会社の健康診断で心臓に不整脈が見つかったことからだった。

大学病院で不整脈を詳しく調べてもらうと、「心房細動」が原因で、脳や心臓に血栓ができるタイプだったこともあり、9月中旬に心臓手術をすることが決定していた。

8月2日、手術するにあたってCT撮影したその日の夜、自宅の留守電に主治医から「CT画像に影が映っていたので、万一のことを考えて、もう一度、造影剤を入れて肺を中心に撮影しましょう」という連絡が入っていた。

8月9日、改めて行ったCT検査画像を見た医師は「これはがんの疑いがありますね。でもそれほど大きくないので多分、手術で取れるでしょう。手術の上手な別の病院の外科医を紹介しましょう」と言ってくれた。

刀根さんは、タバコはもちろん酒も飲まないし、適度に運動もしている自分が「なんでがんになったんだ」と驚くよりも、「手術を受ける前に、自分ができることは全部やってみよう」と決意した。

シュークリームを一度に5つも食べるほど甘いもの好きだったのに、甘いものは一切食べるのは止め、肉食中心の食事も野菜中心の食事に切り替えた。また、がんサバイバーが書いた本を片っ端から購入、読破していった。

「生き残るためには、生き残った人から学ぶのが一番だと思ったからです」

進行性肺腺がんステージⅣと宣告

8月中旬、刀根さんは紹介状を携えて別の大学病院を訪れ、改めてCT、MRI、PETなどの検査を受けた。

9月1日、検査結果を聞きに大学病院を訪れると、紹介してもらった医師が夏休みを取っていて、別の医師からリンパに転移があり進行性肺腺がんステージⅣと宣告された。

その医師は気の毒そうに「刀根さんのがんは、タバコとは関係ないタイプのがんなんです」と告げ、「肺腺がんステージⅣの治療は、手術や放射線という局所治療ではなく、抗がん薬治療が中心になります」と続けた。

「遺伝子を調べる検査を追加していただきますので、書類に目を通してサインをお願いします。内視鏡の生検で細胞は採取しましたので、改めて追加することはありません。

EGFRという遺伝子変異が陽性なら、この遺伝子を持っている人に使える分子標的薬が使えます。EGFRが陰性なら、次にALK(アルク)融合遺伝子が陽性であれば、別の分子標的薬が使えます」

この遺伝子検査の結果がでるまで、およそ10日かかるということで、次回の診察日は15日に決まった。

また、その際に5年生存率は30%と聞かされたが、病院を出て電車の中でスマホを使って調べてみると、医師の話と違って5年生存率は10%以下で、1年生存率が30%だった。

「前の大学病院でステージⅠだろうと聞かされていましたが、僕の性格上、最悪のことがあるかもしれないと心の準備はしていました。しかし、ドクターから肺腺がんステージⅣと聞かされたときは、自分ではその深刻さを、本当には受け止め切れていなかったと思います。

また、5年生存率が30%と聞いたときも、僕が仕事の後でボクシングトレーナーとしてやっていたボクシングの世界では、ほぼ不可能と思われることを達成している選手もいるんです。ですから10%もあれば自分はその10%に入れる、と思いました」

EGFR遺伝子は陰性

9月15日、刀根さんは奥さん、お姉さんの3人で遺伝子検査結果を訊くため都内の大学病院に向かった。

予約時間を2時間以上過ぎた頃、やっと名前を呼ばれた。

待っていた医師は「肺腺がん患者の約4割が持っているといわれているEGFR遺伝子を調べましたが、刀根さんの場合、残念ながら陰性という結果でした。もう1つのALK融合遺伝子は肺腺がん患者の4%しか持っていないといわれている非常に珍しい遺伝子で、陽性の可能性は少ないと思ってください」と告げ、こう続けた。

「ALK融合遺伝子は調べますが、海外に依頼するので2週間ほど時間がかかります。ですので、その結果が出るのを待たずに治療方針を決めたいと思います。いまのところ予定している抗がん薬はアリムタ(一般名ペメトレキセド)かシスプラチン(商品名ブリプラチン/ランダ)を考えています」

刀根さんはシスプラチンという薬の名前に聞き覚えがあった。髪の毛が抜け、吐き気が凄まじく身体がやせ細っていく、そんな薬として記述されていた。

「そんな薬は絶対に使いたくない」

「抗がん薬治療しかないと言われましたが、他の方法はないのですか?」と、改めて医師に食い下がった。

すると「免疫療法の治験がありますが、どうですか」と訊いてきた。

心を動かされたが、治験を担当する医師の話を聞いて、必ずしも免疫療法の治療が受けられるわけではないと知らされ、「そんな博打のようなものに、自分の大事な命を預けることはできない」と治験に参加しないことを決め、セカンドオピニオンを受けたいと担当医に申し出た。医師は快く診断情報提供書を2通書いてくれた。

セカンドオピニオンは期待に応えるものではなかった

刀根さんがセカンドオピニオンに選んだのは、がん研有明病院と帯津三敬病院だった。

「がん研有明病院を選択したのは、がんの標準治療の最高峰の1つなので、私がいまのドクターから言われている病名で本当に間違いないのか、また抗がん薬治療以外に選択肢はないのか、を訊いてみたかったからです。

代替医療を専門にしている帯津三敬病院ではそもそも呼吸器科はなく、結論から言えば2つの病院とも私の期待に応えるものではありませんでした。ただ帯津先生は『最終的には自分が信じたやり方でやりなさい』と言ってくれました」

10月3日、セカンドオピニオンの結果報告をするために大学病院を訪れた。

2通の報告書に目を通した主治医は「当院で治療を続けられますか?」と訊いてきた。

抗がん薬治療をすることに迷いがあった刀根さんは、代替医療を行っているクリニックを訪ねてみるつもりで、再び診療情報提供書を2通書いてくれるようお願いした。

すると主治医は前回同様、嫌な顔1つせず書いてくれたとい言う。

「主治医は誠実でいい人なんだろう、と思いました」

しかし、「納得のいくまで調べてください。でもなるべく早く治療を始めたほうがいいと思いますよ」という言葉を付け加えることも忘れてはいなかった。

あらゆる民間療法を試みるが

あらゆる民間療法を取り入れてみるものの症状は悪化の一途を辿った

食事指導と免疫系への鍼治療をメインにしているクリニックで治療することに決めた。

11月24日、大学病院に出向き、抗がん薬は行わず、クリニックで治療することを伝えると、「それでは、今後一切の診療や経過観察はしません」と言い、「今後、寝たきりの状態になるだろうから、介護申請をしたほうがいい」とまで言われた。

しかし、何故かALKについての説明はなかった。

刀根さんはクリニックに通いながらも、漢方や気功、サプリ、自強法、陶板浴、ヒーリングなど、あらゆる民間療法を試みた。

しかし、そんな努力をあざ笑うかのように体調は、日を追って悪くなっていった。12月中旬には胸の痛みは強くなり、下旬には血痰も出るようになってきていた。

翌年(2017年)1月には首の左側にしこりがあることを発見し、2月に入ると息苦しくなり、左足の股関節が痛み始めた。

3月には左の座骨が痛くて電車の座席に座れなくなり、血痰もひどくなり、身体が重く、だるくなっていった。

4月には61㎏あった体重が52㎏まで落ちていった。

5月には右眼の上半分に黒っぽいシャッターのようなものが降りて半分見えなくなってきた。スマホで調べてみると脳腫瘍の症状に似ていた。脳に転移したのか。それに自分の名前が書けなくなってきた。

さすがに刀根さんも、これは何か良からぬことが起きていると、クリニックの院長に相談すると「よかったら代替医療学会で面識ができた東大病院の呼吸器外科の先生をご紹介できますが」と言ってくれた。

紹介状を手に6月6日、奥さんと2人で、東大病院呼吸器外科の医師の元を訪れた。

医師は撮影したCT画像を見ながら「9カ月前の画像と比較してみても進行が早く、かなり進んでいます」と告げ、「自分は外科なので呼吸器内科の信頼のおける先生を紹介します」と言ってくれた。

2日後の6月8日、再び奥さんと2人で東大病院を訪れ、呼吸器内科の医師から説明を受けた。その内容は予想していた事態よりもはるかに重大なものだった。

遺伝子検査をもう一度してほしい

脳転移画像(2017年6月)

「左肺にあった原発のがんは3㎝×4㎝位の大きさになっていて、同じ位の大きさのものが他にも複数あります。それと右の肺にも数え切れない小さな転移が見られ、多発肺転移という状態です。左肺の内部のリンパも大きくなって、左の首まで転移しています。それと肝臓にも転移があります。問題は脳ですが、左眼の上の奥で浮腫が5㎝以上ありますから、少なくとも3㎝位の腫瘍が考えられます」

そしてこう切りだした。

「脳にこれだけの大きさの腫瘍があれば、いますぐ入院して治療しないと最悪、呼吸が止まる可能性があります」

それを聞いた刀根さんは「自分はやれることは全部やった。しかし、自分の努力は通用しなかった、完敗だと思った。できることはもう何もないんだから、全てを委(ゆだ)ね、お任せしよう」

そう思ったら突然、目の前が急に明るくなり、呼吸が爽やかになって、爽快感に包まれた、と言う。

そして刀根さんは東大病院に入院することを決め、医師にはこう頼んだ。「遺伝子検査をもう一度して欲しい」と。

それはあるとき、ヒーリング治療をしてもらっていた老人と分子標的薬の話になり、以前、遺伝子検査を受けた大学病院での説明に納得がいかなくなったからだった。

6月13日に入院が決まった。6月8日に東大病院を訪れてから入院まで4日間。

「その4日間に20数年来の友人に会って、『このことは魂の計画なの』、と言われたり、翌日には両親に会い、自分がいままで抱えていた父親への思いを、掃き出したりと、次から次に自分は何も決めてはいないのにスケジュールが入ってきました。こんないい流れがきているなら、『もう治るしかない』という確信が芽生えました」

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