「どん底」を味わったから、今、前向きになれる
がん患者と家族の会「かざぐるま」代表・結城富美子さん

取材・文:塚田真紀子
撮影:谷本潤一
発行:2005年5月
更新:2019年7月

  
結城富美子さん
結城富美子さん
(ゆうき ふみこ)
がん患者と家族の会「かざぐるま」代表

“余命は2週間から2カ月”

3年ほど前、そう診断された末期肺腺がん患者の結城富美子さん(53歳)。その回復には、目を見張るものがある。今では、ごくふつうの日常生活を送っているのだ。

ショートヘアに銀縁眼鏡、きっちりとした身だしなみが、元銀行員らしい。尼崎市内の自宅で、夫・俊和さん(53歳)と長女・さやかさん(20歳)と暮らしている。長男・卓さん(26歳)はすでに結婚して、家庭を持っている。

結城さんの場合、がんが骨に転移し、つぶれた骨が脊髄神経を圧迫する激痛で身動きも取れなくなって初めて、「がん」の診断がついた。その時見たMRIの画像は、医師も驚くほど「真っ黒」だった。「今は5月だから、来年の桜は見れないだろうな」と覚悟した、という。

4カ月間入院し、最初の1カ月は放射線治療を受けた。その頃、整形外科医は「一生寝たきりになるでしょう」と回復に悲観的だった。それでも彼女は「退院したら私が家事をしなくっちゃ」と、リハビリに励む。がん治療薬イレッサの服用で、骨のがんが消えた。

あるとき、ひどく落ち込んでいたがん患者に自分の体験を話した。すると、その人の表情がみるみる変わり、別れ際には「私もがんばります」と明るい笑顔を見せた。これがきっかけで、結城さんはかかりつけの病院にボランティアを申し出て、週1回の相談活動を始めた。

そして2004年秋、がん患者と家族の会「かざぐるま」を立ち上げた。患者や元患者の家族、医師や看護師らが集まり、本音で闘病について語り合う会だ。

「振り返ると、大きな道ができていました」

結城さんが微笑む。

「がん患者をたちまち元気づける体験談」を語ってもらった。

おかんが死んでしまう!

写真:病室にて長男・卓さんと
緊急入院の数日後、病室にて長男・卓さんと

最初の“異変”は、背中の頑固な凝りと痛みだった。2002年1月のことだ。そのうち、自転車に乗ると、振動で頭のてっぺんにまで痛みが走るようになった。立ち上がるのさえ辛くなる。整形外科では「椎間板ヘルニア」と診断され、肺がんは見落とされた。湿布を貼り、ストレッチや散歩に励む日が続く。3月になると、熱と咳が出るようになった。

結城さんはそれまでずっと、一家4人の家事・育児を一手に取り仕切ってきた。銀行の仕事と家事を両立していた時期も長く、何でもてきぱきとこなす。なのに、家事が“1日仕事”になっていった。皿は重くて持てなくなり、腕に乗せて洗う。タオルをたたむだけで息切れがし、1回たたんでは休む。家の中を移動するために杖を買った。

それでも、誰も「がん」とは疑わず、短大1年生のさやかさんは、「なまけている」と感じ、深夜に帰宅する会社員の俊和さんは、「単なる腰痛」と思い込んでいた。

4月、ついに結城さんは背中の痛みで動けなくなり、寝ついてしまった。布団の周囲にストロー付きのペットボトルやパン、お菓子、バッグなど、必要なものを並べて寝ていた。トイレには這っていく。久しぶりに帰省した大学生の長男・卓さんは、この光景にギョッとした、という。

さらに、痛みで横になれなくなり、コタツで座ったまま夜を明かすようになった。

とどめは5月、整形外科で受けた痛み止めのブロックの注射だった。下半身の感覚がなくなり、足が麻痺した。尿も便も出なくなった。それでも1人で病院に行く気力がなく、結城さんは得体の知れない痛みにじっと耐えていた。

そこへ、卓さんが大学を休んで帰ってきた。

「このままやったら、おかんが死ぬような気がするわ。病院へ行こう!」

比較的待ち時間の短い内科医院へ行くと、県立病院を紹介された。そこでMRIなどの検査をして、いったん家に帰された。

がんだとわかって喜んだ

間もなく病院から、卓さんを呼び出す電話がかかってきた。「お母さんはお疲れなので、自宅でゆっくりしてください」という説明だった。ピンときた結城さんは、卓さんと一緒に病院へ行った。結城さんの顔を見て、看護師が血相を変えた。

「何でお母さんが来られたんですか! 家にいてくださいよ」

「もう来たんだから、いいじゃないですか」

そんなやりとりが延々と返されるうち、結城さんは腹が立ってきた。

「自分の病気がわからないなら、治療を拒否します」

看護師があきらめ顔で引っ込み、医師と相談した。そして、結城さんは診察室に招き入れられた。MRIの画像が並んでいる。白く映るはずの腰椎や骨盤が真っ黒だった。

「がんですか」

「うん、がんだね。でもここでは十分な治療ができません」

紹介された別の病院に、翌日、緊急入院した。結城さんは「助かった!」と喜んだ。

「不安で孤独な闘いから解放された気がしました。がん告知を受けていない人は、同じような恐怖を味わっていると思います」

「悔しさ」をわかってくれる人がいた!

転移したがんによって、骨は激しく破壊されていた。胸椎6本、腰椎2本、両骨盤、肋骨に転移していた。自分がそう長くない気がし、看護師に鎌をかけてみた。

「このままだと、私、ホスピスかな……」

「そうね」

(はっきり言うなよぉ~)

心の中で“突っ込み”を入れる。それでも「生き抜かなければ」と思った。

さやかさんは当時18歳。結城さん自身、18歳のときに父親を胃がんで亡くしていた。父の死後、母が入院した。結城さんは、世間のせちがらさを味わった。あのとき流した悔し涙を思うと、今、死ぬわけにはいかない。

疼痛をとるための放射線治療が始まった。病室に若い看護師が入れ替わり立ち替わりやってきては、異口同音にこう言う。

「胸から下が完全に麻痺したとき『楽しみ』になることを、考えておいてくださいね」

看護師が立ち去ると、ため息をついた。

(わかってないよ、あなたたち。その対応は、患者には残酷なのよ……)

“今”を生きている患者には、そんな先のことを考える余力などない。仮に「楽しみ」を見つけておいたとしても、その時期が来たときに気力が残っているかどうかわからない。なぜ患者の身になって考えてくれないのだろう。悔しさと寂しさを感じた。

あるベテラン看護師に自分の思いを打ち明けた。彼女はにっこりとした。

「そんな先のこと、考えなくてもいいのよ」

彼女は母親のがん体験を語り、家族の立場で「悔しさ」を受け止めてくれた。

1カ月後、内科に移って抗がん剤治療を受けることになった。結城さんの浮かない顔を見て、このベテラン看護師がたずねた。

「病棟変わるの、どう思ってる?」

「慣れたとこから動くの……つらいよ」

思わず、泣き出していた。

「……そうよね。私たちみんな、結城さんに点滴してあげたいと思ってるから、看護師長に手紙を書いてみるわね」

その結果、同じ病棟で治療が受けられることになった。また、この頃、整形外科医に「退院後は家事をするのはまず無理でしょう。一生寝たきりだと思います」とはっきり言われた。相当落ち込みそうな言葉だが、結城さんはへこたれずに、自分からリハビリを始めた。

「まだ1年ぐらいは生きれると思っているから、私が家事をしてあげなきゃ、夫や娘はどうなるの!?って。それが原動力でした」

当時は足が痛くて上がらず、下着も1人ではけない状態だ。しかも胸水がたまって息苦しい。結城さんは目標をうんと低く設定した。「1歩踏み出す」「2歩進む」など、できそうなことを掲げる。次々と達成感を味わい、次の目標に進んでいった。

一方、「余命は2週間から2カ月」と知った家族も、結城さんを支えようと必死になっていた。さやかさんは毎日、慣れない手つきで弁当を作り、病院に通った。夫・俊和さんは「何で病院に連れていかなかったのか」と自分を責め続けていた。

ある日、俊和さんはスポーツ新聞に肺がん治療薬「イレッサ」の記事を見つけた。藁をもつかむ思いだった。主治医がイヤな顔をするのでは? と数日悩んだ末、記事を持って主治医に相談を持ちかけた。

主治医がその提案を受け入れ、退院後の2002年10月からイレッサの服用が始まった。


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