娘を亡くした後にも再び「喪失」があるとは、思いもしませんでした
インフルエンザ脳症の会【小さないのち】代表・坂下 裕子さん

取材・文:塚田真紀子
発行:2004年5月
更新:2013年8月

  

不妊治療中にがんが見つかった

坂下 裕子さん
坂下 裕子さん
インフルエンザ脳症の会【小さないのち】代表

大阪の代表的な繁華街、十三。

東京でいう歌舞伎町のような街だ。商店や飲み屋、風俗店などが混在している。そこに働く女性を地元では「十三のねーちゃん」と親しみを込めて呼ぶ。

駅前にいる「客引き」のそばを通り過ぎ、にぎやかな商店街を抜けると、下町情緒の漂う住宅地に出る。アパートやマンション、合気道の道場などが立ち並ぶこの界隈で、坂下裕子さんは暮らしている。

「いらっしゃい!」

午後2時。とびきりの笑顔で坂下さんは迎えてくれた。「さっき起きたとこぉ」と言いながら、ピンピンに跳ねたショートヘアを両手でつまんで笑う。雰囲気は、品のある「ピアニスト」という仕事にぴったりの“山の手マダム”だ。なのに、語り口は気さくで飾り気がない。

6年前の冬、インフルエンザ脳症で1歳になったばかりの長女、あゆみちゃんを亡くした。居間の一角には仏壇代わりの小さな机が置かれ、あゆみちゃんの遺影がおもちゃや花に囲まれながら微笑んでいる。

もう1度あゆみちゃんに会いたいと、坂下さんは出産を望んだ。そのための不妊治療中に子宮頸がんが見つかった。1年前、子宮と両卵巣を摘出する手術を受けた。

救急車で4時間半さまよう

6年前の2月6日、午後10時40分。風邪でアイスノンを当てて眠っていたあゆみちゃんに異変が起きた。目と口を開けたまま、意識を失っている。全身が赤紫色だ。

夫婦は慌てて救急車を呼び、あゆみちゃんを抱えて乗り込んだ。当時暮らしていた大阪市内の自宅周辺には、車で15分以内のところに、小児科のある病院が六つもある。すぐに診てもらえると思っていた。

ところが救急車は一向に発車しようとしない。救急隊員の言葉に、坂下さんは全身が凍りついた。

「受け入れ先が見つかりません!」

その結果、遠く離れた夜間診療所で診察を受けた。「肝臓の数値が悪い」と一般病院に移る。病状を軽くみた医師に、坂下さんは必死で異常を訴えた。ついに医師が危機を察知し、あゆみちゃんは大学病院の救命救急センターへ運ばれた。センターは自宅から10分の距離にある。にもかかわらず、センターにたどり着いたのは、119番から4時間半後のことだった。

懸命な治療を受けたものの、あゆみちゃんは20日後に亡くなる。坂下さんはその時の様子を、著書『小さないのちとの約束』(コモンズ)に克明につづっている。

いくつもの喪失

(なんで死ななあかんかったの? もっと早くに適切な治療を受けたかった!)

そんな疑問と無念から、消防署や夜間診療所、大学病院の担当者をたずねて歩いた。

そこから見えてきたのは、「子どもにとって夜は無医村」という事実だった。

夜は、都会でも小児の救急医療が手薄になる。小児科は、大人の診療よりも人手と手間がかかる。その一方で、使う薬が少ないなど、病院にとって不採算部門になりがちだ。加えて小児科医も不足しているから、小児科の当直医のいる病院は限られている。

あまりに大きな問題を前に、坂下さんは脱力感に襲われた。当時5歳だった長男・大樹くんは次第に“赤ちゃん帰り”をしていく。あゆみちゃんの話題を意識的に避けることで、坂下さんのつらさは増していった。

そんなとき、インフルエンザ脳症で3歳の恭平くんを失った立石由香さんとめぐり合う。2人で、同じ病気にかかった子どもと親のための会【小さないのち】を立ち上げた。「あゆみのお母さん」を続けることが、坂下さんに生きる力を与えた。

会の活動がテレビで紹介されると、同じ立場の親から次々と連絡が入った。急性脳症を研究している小児科医に協力を求め、シンポジウムを開くことができた。前進しながらも、当時いくつもの「喪失」を重ねていった、と坂下さんは振り返る。

「以前からの人づきあいがしんどくなって、人間関係をたくさん失いました。家も失いました。あゆみを失った場所に住み続けるのに耐えられなくて、半値以下で叩き売って逃げちゃったんですよ。あゆみが生まれ変わったときに、この家ではまた怖い目に遭わせるかもしれない、と夫を説得して。そういう無鉄砲な行動を取ることで、自分への自信も喪失しました」

ずっと思い通りの人生を歩んできた。あゆみちゃんの死で初めて逆境に立たされた。悪いことをしていないのに、なぜ? と自問し続けた。理不尽な仕打ちに、自分が社会から切り捨てられたように感じたという。

私を奪ってどうするの!

写真:坂下さんはいつもあゆみちゃんとともにあり続ける

小児医療の現状を変えよう。小さな命を守ろう。坂下さんはいつもあゆみちゃんとともにあり続ける

36歳からの4年間、坂下さんは【小さないのち】の活動に打ち込んだ。それでもあゆみちゃんは戻っては来ない。会いたい、触れたい。一人になると、よく泣いていたという。やりきれなさから出産を決心し、不妊治療の専門クリニックを受診した。

ところが医師は、「40歳からだと妊娠の可能性は低い」と残念そうに言う。

「私、何してたんやろ? と思いました。でも、1日もヒマにした日はなかったんですよね(笑)。ずっと子どもを亡くした悲しみを抱えている人に寄り添い、子どもの医療が少しでもよくなるようにやってきた」

青春時代、音大生になるために、1日も休まずピアノを弾き続けてきた。その姿勢のまま音楽の仕事に就いた。レッスンでは、テキストに興味を持てない子どもに、その子が弾きたい曲の譜面を手作りして、弾く楽しみを教えることから始めた。お産の前後も仕事をほとんど休んでいない。そんな坂下さんの【小さないのち】への取り組み方も、容易に想像がつこう。

妊娠の可能性が低いと知ると、なおさらファイトを燃やした。体外受精にも挑戦した。着床せずに落ち込んでいたころ、不正出血があり、子宮頸がんだとわかった。

(これであゆみに会える!)

医師の説明を聞きながらも、身体が宙に浮き、死後の世界に近づくような気がした。

しかし次の瞬間、大樹くんの笑顔が頭に浮かび、“浮いた身体”がドスンと椅子の上に落ちた。あゆみちゃんの死後の一時期、大樹くんから笑顔が消えたことがあった。

(こんどは大樹が一生笑えない子になってしまうかもしれない、死んだらあかん!)

足がガタガタと震え出した。

「予備知識がないから、がん=死と思っていました。震えが収まると、『悔しい』という思いでいっぱいになった。なぜかと言うと、私はすごくがんばったはずなんですよ(笑)。『今、私が望んでいるものは、多くの子どもたちのためなのよ! 私を奪ってどうするの!』と、大それた自信がありました」


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