希望を捨てず、夢を諦めない
小さな命が教えてくれた生きることの素晴らしさ・米山美紗子さん

取材・文:崎谷武彦
発行:2005年5月
更新:2019年7月

  
米山美紗子さん
米山美紗子さん
(主婦)

よねやま みさこ
1958年、栃木県出身。
90年頃から胃痛に悩まされ、95年、内視鏡の検査で初期の胃がんが見つかる。
手術で胃の3分の2を切除。
翌年11月、38歳で3女を出産。
2003年12月には創作童話『黄色のお星さまになった猫』(文芸社)を出版した。


5年越しの胃痛

1995年1月17日。忘れもしない阪神淡路大震災があった10年前のこの日、米山美紗子さんは初めて内視鏡による胃の検査を受けた。5年越しの胃痛を診てもらうためだ。

胃痛が始まったのは次女を出産した2年後くらいから。ときにはかなり激しく痛むこともあったが、市販の胃腸薬を服用すればたいてい治まっていた。だから5年間、医者に診てもらうことなく放っておいたのだ。

ところが94年の秋頃からは胃痛だけでなく微熱も出るようになっていた。そこで米山さんは東村山にあるIクリニックで採血などの検査を受けた。だが異常はなし。すると以前から信頼していた女医のK医師に「うちはまだ開業したばかりで患者さんが少ないから胃カメラの予約をいつでも取れるわよ」と強く勧められたのである。

当日、胃カメラによる検査が終わったあと、K医師の夫である消化器外科が専門のI医師から、とりあえずの所見について説明を受けた。それによると胃壁の一部に胃潰瘍ができて自然に治ったあと痕があり、黒く変色しているということだった。胃潰瘍の薬を3カ月分処方された米山さんは、「いやだった胃カメラも終わったし、胃痛の原因も分かりましたので、気持ちがパッと明るくなったような感じ」でクリニックをあとにした。

ところが2週間後、そのI医師から米山さんの自宅に電話がかかってきた。

「先日の検査の結果については胃潰瘍とご説明しましたが、ちょっとお話ししたいことがあるので明日にでも病院まできていただけますか」

このとき米山さんはとっさに「うかがうのは私1人でよろしいでしょうか」と質問した。容易ならぬ事態であることを薄々察知したのである。それは夫の俊夫さんも同じだった。医師は「1人でいい」と答えたのだが、米山さんから話を聞くと、翌日は俊夫さんも会社を休んで同行することにしたのだ。

「夫は会社人間で、私が熱を出して寝込んでいてもゴルフに行くような人なんです。だからこのときは夫も虫の知らせのようなものを感じたのかもしれませんね」

2人でIクリニックにいき、米山さんが診察室の椅子に座るやいなや、I医師は単刀直入にいった。

「残念ながら、胃がんです」

夫が言った「おまえはバカだよ」

内視鏡検査のときI医師は、念のために胃壁の黒くなった部分の細胞を採って精密検査に出しておいたのである。

「そのとき診察室にはBGMに『ムーンリバー』が流れていて、私はそれをなんとなく聞きながら、強いショックを受けたというよりは、『エー、がん、がんなの、手術しなくちゃいけないの』というようなことを考えていました」

見つかったのは大きさが5ミリ程度の早期がん。通常なら内視鏡手術で切除できることも多いが、米山さんの場合は胃潰瘍が治ったあとケロイド状になった胃壁の部分にがんができていたため、内視鏡で切除するのが難しい。したがって開腹手術になるかもしれないが、いずれにしてもリンパ節などへの転移もない早期がんだから切除してしまえば完治できる可能性が高い。I医師はそういった説明をしたあと、清瀬市内にあるF病院への紹介状を手渡した。

F病院へ向かう車中、ハンドルを握った俊夫さんは一言、こう言っただけであとはずっと黙り込んでいた。

「おまえはバカだよ」

米山さんはこの2年前に父親を膵臓がんで亡くしている。その前の年には俊夫さんの母親も卵巣がんで亡くなった。俊夫さんの姉は81年に28歳の若さで逝去している。胃がんだった。

自分たちの身近にがんで命を失った人がそんなにいるのに、どうしてもっと早く医者に診てもらわなかったのか。もっと早く医者にかかっていればただの胃潰瘍ですんだかもしれないのに……。俊夫さんの放った一言にはそんな思いが込められていた。

F病院では、入院期間が1カ月から1カ月半になると説明された。このとき米山さんがまず思ったのは、当時、小学2年生だった長女と幼稚園の年長組だった次女をどうするかということだ。俊夫さんには仕事があるし、近所に子供たちの世話を頼めるようなところはなかった。

そこで米山さんは1カ月半、実家の母親に預けることにした。長女はその間も学校を休ませるわけにはいかないので正式な転校手続きもした。

夫に言った「あなたのせいよ」

入院は2月8日。手術までは2週間近くあったので、米山さんは2度、外泊で家に戻った。この頃、米山さんは俊夫さんにひどくつらくあたってしまったという。

「結婚する前に主人は、私が胃がんで亡くなった自分の姉に似ているといったことがあるんです。そのことが頭にあったので、『あなたがあんなことをいうから私まで胃がんになっちゃったじゃないの』と責めてしまったんです。『あたしが今、どんな気持ちでいるか、あなた分からないでしょう。もしかしたら私、死んじゃうかもしれないのよ。あなたはいいけれども、子供たちはどうするのよ』と、なじったこともありました。子供たちを実家に預けていたので、いいたい放題でした。今思うと、もう謝りきれないくら……。きっと主人のほうが辛かったと思います。でも主人はそんな私に対して何も言わず、じっとこらえていてくれたんです」

2月21日に行われた手術では、胃の3分の2を切除した。米山さんは子供の頃に3回も開頭手術を受けたことがある。そのせいか、手術自体は「気楽な感じで受けることができた」という。

術後の回復は早かった。口から食べ物を入れるようになったのは術後1週間くらいから。リハビリもすでに始めていた。退院の直前には実家の母親が子供たちを病院に連れてきてくれた。実は米山さん、入院中は子供たちと1度も会っていなかったのだ。

「主人の母と私の父のときは、子供たちをつれて病院に見舞いにいきました。それで子供たちは、病院で点滴をしている人たちは死んでしまうものと思っているようなところがあったんです。私は手術の前の年、微熱が続いていたとき病院の外来で点滴を受けたことがあります。そのとき主人が子供たちと一緒に車で迎えにきてくれたんですが、長女が点滴をしている私の姿を見て、『ミーちゃん、死なないでね』っていったんです。このときは涙がボロボロ出ちゃいました」

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