がんになってもやれることはいっぱいある! スキンヘッドでヌード写真を撮った「史上最凶の乳ガン患者」・川上きのぶさん

取材・文:崎谷武彦
発行:2005年3月
更新:2013年8月

  
川上きのぶさん
川上きのぶさん
(陶芸作家)

かわかみ きのぶ
1959年生まれ。神奈川県出身。
武蔵野美術大学工芸工業デザイン科・陶磁専攻(大学院)修了。
1992年に東京あきる野市に「工房うむき」を開き、陶芸作家として活動する傍ら、陶芸教室も主宰している。
2003年11月に乳がんを発症。乳房温存療法による手術を受けた後、抗がん剤療法と放射線治療を受けた。


ホームページもヌードも自己表現の1つ

写真:ホームページの写真の1枚

ホームページの写真の1枚。
「こんな写真をとっちゃう患者がいてもいいでしょう(笑)」と川上さん
川上きのぶホームページ

2004年の5月、川上きのぶさんは夫の洋一さんの手を借り、ホームページを開いた。タイトルは『史上最凶の乳ガン患者』。なんともカゲキである。

しかし中身はタイトル以上にカゲキだ。たとえば自分が乳がんになったことについてのこんな一節がある。

『私もこれをきっかけにすっかり反省して、マスコミに登場するみなさんが口をそろえて言うように「命の大切さ」とやらに目覚めました。毎日がとってもいとおしいの。なんてわきゃねーだろーが。だいたいどいつもこいつもワンパターンに、ケナゲな患者を演じてんのが気に入らないんだよ。つーわけで、私は史上最凶の乳ガン患者を目指すことにしたぞ』

写真もすごい。肌もあらわな格好に革ジャンをまとった川上さんの頭はつるつるのスキンヘッド。まるで男性週刊誌にでも出てきそうな写真が何枚も掲載されているのである。おまけに川上さんはプロのカメラマンに頼んでこの写真を撮影したとき、オールヌードの写真も撮っている。写真自体はまだどこにも公開されていないが、ヌード写真を撮ったことはホームページ上で自ら明らかにしている。そのことを題材に書いたエッセイ「再生へ・乳ガンヌードの記念写真」は昨年の第17回GE横河メディカルESSAY大賞で優秀賞を受賞した。

川上さんは東京のあきる野市に自分の窯を持つ陶芸作家であり、こうしたホームページもヌード写真も「1つの自己表現」だと主張する。

「陶芸でがんを表現したかったんですが、どうもピンとこないし、手術直後だったので体力も気力もついて行かない。それでは自分の身体で表現してみたらどうかと思ったのが写真を撮るきっかけでした。自分の体にメスを入れたのは乳がんの手術が初めてだったので、身体というものをすごく意識したからということもあります。なかにはこのホームページに拒絶反応を示す人もいます。でも心地よいだけではなく、表現というものには気持ち悪いとか、おどろおどろしいとか受けとられるようなものもある。私は自分の身体を媒体にして、そういう面を持っているがんを表現したかったんです。がんになったのは嫌なことですが、それを表現することに転換すると、少し楽になるんじゃないかという思いもありました」

また、手術までは病気に立ち向かうという姿勢でいても、その後、抗がん剤など長い時間のかかる治療に入ると、緊張の糸が切れて落ち込むという話を聞いた。そこでヌードの撮影を目標にすることで、常にハイテンションを維持しようというもくろみもあったそうだ。

インターネットで情報収集と病院選び

川上さんが左の乳房にしこりがあるのに気がついたのは2003年の11月。いっときパニックになりかけたがすぐ冷静さを取り戻し、まずは検査を受けることにした。ところが市の検診センターに電話をすると、すでに翌年の1月まで予約でいっぱいとのこと。いい病院を紹介してほしいと頼んでも、具体的な名前はあげられないとの返事でラチもあかない。さてどうするか。

ここでものをいったのがインターネットだ。洋一さんがインターネットで検索すると、自宅から1時間ほどのZ医院に、マンモグラフィを備えた乳腺外科のあることがすぐにわかった。このあともインターネットは病院選びや情報収集で大きな効果を発揮する。川上さん自身はこのときまだパソコンを使っていなかったが、かえってそれがよかったと言う。

「インターネットには暗い闘病記とか亡くなった人の話とか、こっちが落ち込むような情報も多いじゃないですか。でもダンナがチェックし、そういう情報は全部ストップしてくれたので、私は本当に役立つ情報だけ見ることができたんです」

数日後、受診したZ医院での診断は、ステージ1の乳がん。「親戚にはがんがゾロゾロいますし、叔母は白血病で亡くなっていますので、がんイコール死というイメージは私の中にもありました。だからその日の夜、布団に入ったときは涙があふれてきました」

もっとも翌日からは情報収集で忙しく“ハイテンションの日々”が続く。その過程で川上さんは乳がんの手術方法が病院によっても違うことなど、いろいろなことを知る。患者会のイデアフォーのことも知り、電話相談も受けた。

「イデアフォーは具体的な病院名をあげて情報を提供してくれますし、患者の生の声が聞けるのでとても役に立ちました。それまでは世の中に乳がん患者は自分1人しかいなかった。でもイデアフォーに電話してそうじゃないことが実感できました。それだけでも精神的にずいぶん楽になりました。ろくに説明もせずに手術を急ぐ病院は危険信号ということも、インターネットなどの情報で知りました」

医者選びの決め手はインフォームド・コンセント

ところがZ病院から紹介されたN病院が、その危険信号の病院だった。たまたまそのとき診察した若い医師が慣れていなかったのか、あるいは年末だったからなのかは分からないが、検査が終わったらいきなり手術の説明に入り、「年内に手術したほうがいい」とその場で日程を決めるように言ってきたのである。

「私は事前に勉強しておいたのでよかったけれど、なんにも知らない人が前置きなしにこんなこと言われたら動揺して、『先生にお任せします』なんて言っちゃうんじゃないでしょうか」

というわけでN病院に見切りをつけた川上さんは再びインターネットによる情報収集で病院探しをした。そしていき当たったのが、慶応大学病院の近藤誠医師だった。初めて近藤医師の診察を受けたときの印象を川上さんはこう話す。

「近藤先生は話し方がぶっきらぼうだから合わない人もいるかもしれないけれど、私は相性がいいと感じました。説明も分かりやすいし、ハッキリ言うし、医者選びはやはりインフォームド・コンセントだなと改めて実感しましたね」

近藤医師の診断では、ステージ2aの乳がん。Z医院の診断とはやや違っていた。ただ幸いリンパ節には転移していないようで、手術は温存療法でいけるとのこと。陶芸で腕力を必要とする川上さんにとって、力が入らなくなるかもしれないリンパ節郭清をしないのはせめてもの救いだった。

UNHAPPY NEW-GUN YEAR

写真:抗がん剤治療の前までは、腰にかかるくらい髪を伸ばしていた

抗がん剤治療の前までは、腰にかかるくらい髪を伸ばしていた

治療はまず外科手術を受け、その後に抗がん剤治療と放射線治療を受けることになった。

手術をするのは近藤医師が紹介した茅ヶ崎の湘南東部総合病院(現在は湘南東部クリニック)。川上さんの自宅からは電車とバスを乗り継いで2時間半かかる場所だが、ここも診察を受けに行ってみたらとても分かりやすい説明で、質問にも的確に答えてくれたので、信頼できたという。手術後の放射線治療は近藤医師に担当してもらうことになり、川上さんにもう迷いはなかった。情報と知識の収集に努め、妥協せずに病院選びをしてきたのが結果的にはよかったということだった。

もちろんその間、不安な気持ちが全くなかったわけではない。入院の直前に温泉に行ったのは、「これが最後になるかも」と考えたからであった。その少し前には美容院に行き、腰まであった髪をばっさりカットしている。抗がん剤の副作用で髪が抜けることを覚悟してのことだ。

湘南東部総合病院に入院したのは2003年12月の24日。抗がん剤の副作用を軽くするには、大量の水分を摂って早く排出するといい、という情報をインターネットで仕入れていたので、お茶やウーロン茶などのペットボトルを12リットル分、持参しての入院だった。

手術は翌25日の午前中。午後には最初の抗がん剤投与が行われた。そして年末の29日には退院。2004年の正月に、川上さんの知人や友人は、こんな文面の年賀状を受け取ることになった。

『UNHAPPY NEW-GUN YEAR!とは、新年早々面妖なと思われるでしょうが、暮れの25日に左乳房の乳癌摘出手術を受け、29日に退院したもんで。現在抗癌剤投与中で、いずれは副作用でつるっパゲも確実とか。近々放射線治療も始まり、主治医は斯界の問題児・慶応病院の近藤誠講師だっ(笑)。幸いステージIIAで、廓清無しの温存手術を選択でき、摘出後の断端検査も陰性でしたが、5年生存率91パーセントと言われても安心できません。春には、作品の形見分けセールをやる予定なので、札束持っておいで下さい。』

これもまた川上さんお得意の“毒のある自己表現”なのであろう。

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