「尊厳ある生」こそ大切なもの
無念な思いを抱いて死んでいく人をなくしたいから、私は書き続ける・中島みちさん

取材・文:崎谷武彦
発行:2004年4月
更新:2013年8月

  
中島みちさん
中島みちさん
(ノンフィクション作家)

なかじま みち
1931年、京都生まれ。
TBS勤務を経てノンフィクション作家に。
1970年、乳がんになり、右乳房を切除。姉と夫をがんで亡くしている。
『奇跡のごとく―患者よ、がんと闘おう』(文芸春秋社)、『脳死と臓器移植法』(文春新書)、『患者革命―納得の医療、納得の死』(岩波アクティブ新書)、『がんと闘う・がんから学ぶ・がんと生きる』(文春文庫)など著書多数。


検査さえしなかった“皮膚科の権威”

写真:フリーアナウンサー時代の中島さん

中島さんは日本で最初のフリーアナウンサーでもある。テレビ番組の司会やナレーション、CMなどで活躍した

「なァもない、なァもない」

中島みちさんの耳には、40年前の医師のこの言葉が今もしっかりこびりついている。どこの方言なのか、当時皮膚科の権威として知られていたN大病院のM医師ははっきりそういったのだ。

中島さんの姉のさちさんが、お尻の「ほっぺ」にできたほくろが気になり、近所の医院を訪れたのは1960年のこと。単なる良性のほくろではないと考えたのか、そこの医師が紹介してくれたのがM医師だった。そしてM医師は「なんでもない」と診断し、若い医師にそのほくろをその場で簡単に切除させたのだった。そのときさちさんは切除した組織を検査してもらうようM医師に頼んだ。

それから3カ月後、リンパ腺の腫れに気づいたさちさんは再びN大病院を訪れ、手術を受けた。そして数日後、中島さんは、姉の命があと半年だということを聞かされる。皮膚がんの一種のメラノーマ(黒色腫)だった。

メラノーマなら当時でも最初に放射線をかけておいてから大きくえぐり取るように切除すれば、治療方法は残されていた。だがM医師が検査もせず、ほくろギリギリにメスを入れたために、がん細胞が散りリンパ管に入ってしまった以上、もはや打つ手はなかった。

やがて腫瘍が全身に転移し、さちさんは2年後、苦しみぬいた末に息を引き取った。

乳がん治療の放射線障害で鎖骨を除去

写真:乳がんの手術から1年が過ぎたころ
乳がんの手術から1年が過ぎたころ、
ほっとした表情

写真:お気に入りのスタイルで撮った1枚
お気に入りのスタイルで撮った1枚

中島さんはがんに関して三度、煮え湯を飲まされている。一度目はさちさんのとき。二度目はその10年後、中島さん自身ががんになったときのことだ。ある日、右の乳房に小指の先くらいの小さなしこりがあるのに気がついた中島さんは、がん専門病院で診察を受けた。

「大丈夫ですよ」

乳がんの権威といわれるA医師は触診のあとに断言した。ただ一応念のためX線検査を受けておくように勧めた。しかしその病院のX線検査室は向こう2週間、すでに予定が埋まっていた。中島さんも仕事の予定がある。そこでX線検査は急いだほうがいいのか、何度かA医師に確認した。そのたびにA医師はこう答えた。「なんてことないものだから、仕事を休んでまで急ぐことはない」と。

けれども中島さんはさちさんのときのことがあったのでどうしても気になり、数日後、別の病院にいって診察を受けた。そこの医師は触診したあと、「おそらく良性のものだろうが、細胞をとってみなければがんか線維腺腫かわからない」という。そして後日、数針縫う程度の切除術を受けた。

4日後、病院に呼ばれて告げられた検査結果は、乳がん。このときのことを中島さんは著書『がんと闘う・がんから学ぶ・がんと生きる』で詳しく書いている。それを読むと、医師からがんを告知されたとき中島さんは妙に高いテンションで受け答えをしている。それがかえって中島さんの心の動揺ぶりを表していて、痛々しい。

結局、中島さんは手術で右乳房を切除。その後、転移を予防するということで当時、英国からきたばかりという新しい放射線治療も受けた。今、中島さんには右の鎖骨がない。このときの放射線治療の後遺症で後に骨がボロボロになり、折れた骨が首から突き出てしまったため、手術でとってしまったのだ。

中島さんは姉の無惨な死から、医療過誤の研究を志し、仕事、子育てをしながら法律を7年間学んだところで、乳がんになった。すでにがん細胞はリンパ節に入っていたので、あと2、3年の命と思い、誤診からの患者の自衛を訴えるために本を書いた。それが多くの人々に読まれたことから、ノンフィクションを書き続けることになる。

「その10年後、もうがんについて書くのはやめたいと思いました。がんについて書くのはとても重くて、風通しが悪いなと感じていましたし、10年間がんについて書いたり発言したりして、世の中へのお礼奉公はもう充分。これからはもっと面白いことを書くつもりよって夫にいったんです。そうしたら夫に、『君の書いた本を読んで命が助かったと言ってくれる人がいる。人の命を救えるなんて、こんなに幸福な人生はないじゃないか』とたしなめられました。その直後に夫が倒れ、私はがんのことについて書き続けることになったのです」

「がんノイローゼだ」と暴言を吐いた医師

中島さんをそう励ました夫の照明さんが肺がんに倒れたのである。そしてこれが三度目の煮え湯になった。

80年夏ごろから、中島さんは、照明さんが軽く乾いた咳をするのが気になっていた。肺がんで亡くなった舅の病室で聞きなれた咳だったからだ。

中島さんは自分や姉ががんになったときの経験から、命の分かれ目となるときがいかに見過ごされやすいか、せっかく本人が早期に発見しても医療側の見落としで手遅れになることがいかに多いかを、いやというほど思い知らされてきた。だから照明さんの咳にも、気管支鏡検査を何人もの医師に頼んだ。だが医師たちは、X線検査をしただけで、咳は、ヘビースモーカーにありがちな慢性気管支炎によるもので、まったく心配はないという。

それでも、ある病院の本格的肺がん検診の予約をとり、待っている間に照明さんは、肩や骨の激痛を訴えるようになり、中島さんは都心の病院のK副院長に肺がん検査を頼み込む。彼もまた、X線写真を1枚撮っただけで、咳は単なる気管支炎によるもの、肩や胸の痛みは咳に伴うものと断定した。そればかりか中島さんが遠慮がちに「肺門のがんが心臓の陰になっていたという話をよく聞きますが」と質問すると、K医師は中島さんのほうを見向きもせずにこういったのだ。

「これほど鮮明な写真なら、たとえがんが心臓の陰に隠れていたとしても見るものが見れば分かります。奥さんはがんノイローゼ気味なんじゃないですか」

それから1週間後、照明さんは仕事中に突然倒れ、緊急入院。気管支鏡を入れると、まさに、心臓の真裏に当たる肺門部の気管支内腔は腫瘍でピタリと塞がっていた。空気がまったく入らなくなった左肺は、風船がしぼむように急速につぶれ、肺の組織は壊死し、この時点で治癒への道はまったく閉ざされてしまったのだ。3カ月後、照明さんは1度も家に帰ることなく入院先の病院で亡くなった。

気管支鏡検査=口から内視鏡を挿入して気管支内を観察し、病巣部位の組織・細胞を採取したりする検査。病気の確定判断には欠かせない。

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