「治療を受ける理由」は何かを考えた
夢まぼろしの如くなり
肺がんの宣告。すでに腰にも転移
私がはっきりとがんの宣告を受けたのは、2004年1月でした。今までの検査で肺に影があることが分かっていましたから、ある程度覚悟をしていたつもりですが、さすがに宣告されたときはショックでした。
それまでの経過を簡単に書きますと、私は1年半前から右腰が痛くなり、整形外科にかかっていました。薬を飲み、リハビリもしましたが少しも良くなりません。1年ほどたった頃、担当医がおかしいということで、国立病院でCTスキャンやMRIの検査をしました。がんの疑いが強いという結果でした。
この国立病院では呼吸器系が弱いというので、N大病院を紹介され、2003年のクリスマスイブの日、気管支鏡検査を受けました。そして年が明けて1月、がんと診断されました。肺に3カ所、腰に1カ所転移しているとのことでした。もしこのまま治療をしないとどれだけ持つか聞いたところ、「半年、長くて年内いっぱい」ということでした。
予想はしていたものの、はっきり告げられたときは頭が真っ白になり、パニックになりました。そのときまず2つのことが頭に浮かんできました。
気がかりは妻のこと
1つは、ついに来たか、ということです。私の母は4年半前にやはりがんで亡くなっていました。母も私もヘビースモーカーですから、いずれ私も肺がんになるかも、と漠然と思っていました。それに酒も飲みますから、肝硬変の可能性もあります。つまり、日頃体に良いことは何もしていない生活を長年送っていたわけです。そんなことなら、タバコも酒も止めたらいいではないかと言われそうですが、それが出来ないのが私の性格の弱さで、今更変えることが出来ませんし、変えるつもりもありません。
昨年2月、私は還暦を迎えましたが、人間60歳にもなれば何が起こってもおかしくない歳です。母が亡くなったあたりからぼつぼつ最悪の事態を覚悟し、自分の身辺整理をしておかなくては、と思い始めていました。そんな矢先の宣告でした。
2つ目は、家内のことです。彼女は4年ほど前から若年性認知症になり、自宅で介護していました。週5日、1日3時間ヘルパーさんに来てもらっていますが、それ以外の時間は私が介護をしていました。
私は人生の中で料理や家事などやったことがないので、彼女の介護に直面したときは戸惑いましたが、なんとか最低限のことはしてきたつもりです。毎日仕事をしながらでしたから、正直しんどかったことも事実です。そんな中で、私が入院したり、もしものとき彼女の処遇がどうなるかということが心配でした。
2年前から施設への入所は申請していましたが、入所希望者が多く何年か待機の状態が続いています。私が治療するにしても彼女をどこかに預けなければ安心できません。ですから私の治療計画をはっきりする前に彼女の受け入れ先を探さなければなりませんでした。
福祉事務所に相談したり、都内や関東周辺の介護施設へ電話したりしましたが、どこも満員で空きがなく2月いっぱい費やしてしまいました。ようやく3月に入って区内の老人保健施設で受け入れてくれるところが見つかり、とりあえず預けることができました。
さて、家内のことが落ち着いたところで、私の治療をどうするかということが問題になります。母の闘病時期に多少がんについての本を読みましたが、無理な抗がん剤の投与で副作用に苦しめられる結果になるよりは、余命数カ月であっても残された寿命を充実した生活を送るほうが本人にとって幸せではないか、という見解に共感していました。
極端に言えば、チューブに繋がれた「スパゲッティ状態」で「植物人間」みたいに延命していても、それが人間として幸せなんだろうかということです。そんなことを考えていたせいで、自分の治療に関してはあまり積極的ではありませんでした。そんなとき、心配していた妹たちが乗り込んできて「そんな消極的な姿勢ではダメ」と発破をかけられました。
延命したいとは思わない。しかし、まだ死ねない
どんな病気でもそうでしょうが、がんと向き合うということは本人の人生観の問題だと思います。私自身については、家内や息子のことで心残りはありますが、それほど延命したいとは思いません。もちろん実際に最期に直面したら、その覚悟もどうなるか分かりませんが。もともと私の性格は、チャランポランですし、気が小さくて病院へ行くのも嫌です。まして手術となると、正直ビビってしまいます。
私は、織田信長の好んだ謡曲の一節、「人生五十年下天のうちをくらぶれば/夢まぼろしの如くなり/ひとたび生を享け滅せぬ者のあるべきか」の心境になりたいものだと思います。それに、戦争中の名古屋空襲、1959年の伊勢湾台風をくぐり抜けた私としては60年生き延びたことで十分という気持ちもあります。が、家内のことを解決するまでは死ぬに死ねないとの思いはありますから、なんとか少なくともあと1年は生き延びたいと考えました。
そんなことで、2~3月は、先端医療の病院を探したり、免疫療法を受けに行ったり、サプリメントを飲んだり、いろいろなことをしましたが、西洋医学の本格的な治療は受けていませんでした。それは最初に宣告を受けたN大病院の医師に多少不信感があったせいでした。その後、他の医師や医療コーディネーターなどの助言もあって、現在のT医大病院で治療を受けることにしました。
抗がん剤投与に加え、腰骨のところは放射線で治療するということで、検査を含めて2週間入院、その後は通院になりました。放射線の治療は効果があったようで影は無くなりました。化学療法のほうは、3~7月までしましたが少しは効果があったようです。体がだるくなったり、食欲がなくなったり、脱毛したりと副作用は現れてきましたが、幸い重篤にはならずに済みました。
8月以降はしばらく休むということなので、どこか旅行をしようと思うようになりました。
そこで昨年10月、初めての海外旅行で中国へ行きました。おそらく今回しか行けないと思うとヨーロッパへ行きたかったのですが、体力に自信がない状態ではあまり遠い所は無理かと考え近場を選びました。実は6月に香港・マカオ旅行を計画したのですが、これは治療中のため流れてしまいました。
息子との中国旅行
息子と2人、大連、ハルピン5日間の旅でした。飛行機にも初めて乗りましたし(私は飛行機嫌いなのですが)。初めての海外旅行とあって、とても新鮮で感激しました。せっかくの中国旅行なら「北京・上海・西安……」などのパックプランもありましたが、私としてはどうしても大連を見てみたかったのです。
「アカシアの大連」のコピーに魅かれたわけではありません。それは旧「満州国」の現地を見たいことと、敗戦まで家内の両親が生活していた地、そして敗戦時、子供2人を亡くした地を見たいとの理由からです。今年は日本の敗戦60周年。太平洋戦争への出発点になった「満州事変」、その舞台だった中国東北三省を見たかったのです。
大連、ハルピンともに急ピッチで開発されていて高層ビルが立ち並び、昔の面影は残っていませんが、それでもまだ当時の建物がいくつか残っていましたし、旧日本人街を見ることができました。残念だったのは、特急「アジア号」を見れなかったことと、それが走っていた大連~ハルピン間の鉄路に乗れなかったことでしょうか。
旅順では203高地など日露戦争の戦跡を見てきました。当時、私の祖父が海軍水兵として戦艦に乗っていましたから、おそらく旅順、大連にきたこともあったでしょう。そんな感慨を想いながらの旅でした。
息子は、以前ユーラシア大陸を1人旅したことがありました。中国は初めて行くので期待していたようですが、大連を選んだときはあまり興味がなさそうな様子でした。歴史的な遺跡や名所が少ないことによるでしょうが、それでも私の希望を入れて連れて行ってもらった格好です。機会があれば、今度はゆっくり大連、瀋陽、長春、ハルピン、牡丹江、黒河などを廻りたいと思っています。
今後の治療の目標ができた
帰国後、また旅行に行きたいと思うようになりました。12月に息子がパソコンを買ってきてインターネットが出来るようになると、海外、国内旅行のページを見ていろいろと勝手にプランを立てています。いわば、バーチャル・トラベルといったところです。
治療が一段落する6月頃には憧れの北海道旅行をしてみたいと考えています。今度は1人旅、バックを担いで普通列車を乗り継いで、気に入った所があれば何日も留まったりしながら、2~3週間ぐらいの旅ができればいいなと思います。1人旅で北へ行くなんて男のロマンじゃないですか、と思うのは私だけでしょうか。
大雪山や富良野のラベンダー畑など見たいし、旅先で新しい恋の出会いがあったらいいな!? なんて空想しながら。そのつもりで観光地ガイドとか安い宿とかを探したり、コースを練ったりしているところです。行けるかどうか分かりませんが、これだけでも結構楽しいものです。
こうして数カ月先の計画を立てていると、なんとかそのときまで生き延びたいという思いになります。6、7月に北海道で私を見かけたらぜひ声をかけて下さい。
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