卵巣がんの叔母と最後のときを過ごした20日間
死は永遠の別れではなく……

文:汲田真帆
発行:2005年3月
更新:2013年4月

  

私は3年前の秋、48歳の叔母をがんで亡くしました。叔母は姉である私の母ととても仲がよく、お互いの家を行き来していたので、私は従姉妹たちと姉妹のようにして育ちました。両家は家族のように生活していました。叔母には小さい頃からずいぶんと可愛がってもらいました。もう1人の母のような存在であったと思います。

そんな叔母は、生を終える最期の20日間を、住み慣れた自宅で過ごし、家族に見守られる中、逝きました。私はその間、夜間の見守り役として、最期のときを叔母と共に過ごすことができました。その体験は私の中で大切な思い出として今も強く残っています。

卵巣がんの転移「家で過ごしたい」

写真:発病後、愛犬モモと娘の描いた壁画の前で
発病後、愛犬モモと娘の描いた壁画の前で

4年前の夏、叔母は腹水でぱんぱんになったお腹を抱えて病院にかけこみました。診断の結果は卵巣がん。他の臓器にも転移が見られ、すぐに手術、抗がん剤治療を受けましたが再発してしまいました。通院で闘病を続けるつもりだったのですが、腎不全を併発してしまい、病院での生活に引き戻されてしまいました。「家に帰りたい、家で家族と一緒にいたい」と、叔母は在宅での治療を強く希望していました。しかし一口に家で過ごすと言っても、いろいろな準備が必要です。電動ベッドなど必要な物品を揃え、医師や訪問看護師、ヘルパーの派遣などを頼みました。

ところが、ただ1つ問題がありました。それは、叔母が「夜、身内でない知らない人が家の中にいるのは気が張るから、どうしても家には帰りたくない」と言ったことです。叔父は教師をしていて学校を休むことができず、夜の介護は負担になるのでとてもできません。従姉妹たちもまだ中学生ですから、夜もヘルパーさんが必要になります。夜間付き添える家族がいない現状を知りながら、敢えてそんな希望を言った叔母には、このまま病院で療養していくというあきらめ、覚悟もあったのだろうと思います。

しかし、病院にいる叔母に会いに行ったとき、白い壁に四方を囲まれ、その真ん中でぐったりとしている叔母を見て、はっとしました。もう食べ物を口からとることができず、ただ横たわっているだけの叔母でした。体の横からのびている点滴は、まるで叔母の体を縛っているように見えました。水を少し口に入れただけで苦しそうにもどし始める叔母の姿を見て、私はやるせない気持ちでいっぱいになりました。ふっくらとした優しい笑顔は面影もなく、やせ細ってしまった手を握るたび驚きを隠せませんでした。これが本当に叔母なのだろうか? 胸がしめつけられるような思いでした。そして私が手伝うことで叔母の願いが少しでも叶うなら……という思いが次第にこみ上げてきて、私が叔母の介護をしよう、そう思ったのです。

その頃私は実家を出て、ヘルパーとして働いていました。就職した先は、私が本当に心から願っていた場所でした。これから仕事を続けていきたい気持ちがあった私が退職して家に戻るという決断を下すまでは、正直だいぶ葛藤がありました。けれど叔母との時間は今しか過ごせない、このまま叔母を失いたくないという思いが強く、気持ちは固まりました。

私が夜間の付き添いをすることになり、叔母は退院しました。家に帰ってきたときの嬉しそうな叔母の表情は忘れられません。その日の空はとても澄みきった青で日の光がさんさんとしていました。病院から戻る車の中で叔母は始終にこにこしていました。

叔母は家で毎日を一生懸命生きようとしていました。病院ではできなかったのに、歩いたり、何かを「食べたい」と言うようになりました。摘んできたハーブの香りを楽しみ、愛犬の頭をなでる……私のよく知っている叔母の姿がそこにはありました。夜間の付き添いは気を張りつめるため、体がついていかず、正直に言うとつらいときもありましたが、以前のような叔母の姿を見られることはとても幸せでした。

叔母は退院したとき、冬まで生きられるかどうか、と言われていました。いつか終わるときがくる、という思いがあったからこそ、つらくても続けていくことが出来たのかもしれません。でも一緒に過ごしたときの叔母の笑顔が今もまぶたの裏に浮かんできます。だから今、心からよかったと思っていますし、この選択に後悔はありません。

家族に囲まれて安らかな最期のとき

退院から20日目のことでした。叔母は危篤状態になりました。その日の午前2時頃、いつものように検温のため叔母の体に触れると、いつも熱っぽい叔母の体がひんやりと感じられました。呼吸も浅く、脈が弱まっていて、かろうじて手で感じ取れるくらい。血圧は低すぎて計ることができませんでした。慌てて私はすぐ叔父さんに来てもらい、地方に住む祖父母に急いでこちらに向かって欲しい旨を伝えました。

それからすぐ看護師さんに連絡しました。そのとき看護師さんは電話で、「覚悟はされていたんですよね?」と言いました。この言葉は私の胸にこたえました。なぜなら、覚悟しているようで覚悟していなかったからです。在宅になってから驚くほどいきいきと生活を送ってきた叔母の姿を見て、もしかして大逆転もあるのかもしれないと思っていた私がいたことに気づかされました。私の心はまだ叔母が死んでしまうということを全然受け入れていなかったのです。どうしよう、どうしよう……、顔から赤みがひき、手足が冷たくなってきている叔母を前にして、怖くて怖くてたまらなくなりました。叔母の体が「死」というものに向かって進み始めたことを認めざるをえない状況でした。頭の中をぐるぐると思いがめぐります。「叔母さんが死ぬって? 私の叔母さんはどこにいってしまうの? もう会えなくなってしまうの? いやだ、そんなの絶対いやだ! 怖い! 誰か助けて!」。めまいがして、私はその場に立っていられませんでした。

でも側にいる家族の中で、介護の経験があるのは私だけです。妻を失うかもしれない叔父さん、お母さんを失うかもしれない従姉妹たち、妹を失うかもしれない母たちの前で、弱気な顔になってはだめだ、今一番苦しいのは叔母さんなんだから、私が泣いてどうする! と自分を奮い立たせるようにしてふんばりました。看護師さんは「今行っても何もすることはできないから」という理由で明け方に来ることになっていたのですが、私は「今すぐに来て」と心から叫びたかったです。でもその言葉は言えませんでした。

集まった叔父や従姉妹たちと叔母の手足をさすったり、体をこすったりして温め続けました。気が動転していて、私にはそのくらいしか思いつきませんでした。「せめて祖父母たちが到着するまでは……」、「少しでも長く一緒にいたい」、と思いました。

すると、明け方になって叔母の体に赤みが少しずつ戻ってきたのです。朝方看護師さんから連絡をうけた医師もとんできてくれ、点滴して叔母は一時持ち直しました。祖父母や叔母の兄弟たちも到着し、会うことができました。

そして、その日の夕方のことです。家族みんなに見守られながら、叔母は旅立っていきました。「ご臨終です」。その言葉を聞いたときは、もう何がなんだかわからないくらい泣きました。

だんだん冷たくなっていく叔母の体を肌で感じて、もう戻ってこられないのだと思い悲しくなりました。それは叔母であって叔母ではない、ぬけがらのように見えました。叔母がどこにいってしまったのかはわかりませんが、もうこの体の中に叔母はいないのだということを思いました。

心の中で叔母との関係がいつまでも続く

写真:シドニーに暮らしていたころの叔母の家族と祖父母

1991年叔父の転勤でシドニーに暮らしていたころの叔母の家族と祖父母。ここでの生活が気に入り、叔母は闘病中も「治ったら行きたい」と夢見ていた

その夜、従姉妹たちは叔母さんと同じ部屋で休みました。「この体を焼いちゃったらお母さんはどこに行っちゃうの? まだ一緒にいたい」と泣く従姉妹達に何か言わなくてはいけないと思い、混乱する頭で必死に考えました。「体は今までお母さんが入っていたところだし、ずっとその姿で一緒にいたからなじみがあるし、焼いてなくなってしまうのは本当に悲しいと私も思うよ。でももし神様がお母さんの心(たましい)と体(ぬけがら)のどちらかしか残しておけませんよ、っていったらどっちが一緒の方がいい?」と言いました。2人とも「お母さんの心がいい」と言って泣きました。

それまで私は、死んでしまったらその人のたましいはこの世界とは違う、どこかはるか遠いところに行ってしまうので、もう2度と会えないのだと思っていました。けれど実際に叔母が死んでしまった今、そう考えると、つらくてあまりにも悲しくて胸が苦しくなってしまいます。その問いにまだ答えを出すことはできていません。けれども、ただ1つわかったのは、私は叔母と「終わり」なのではなくて「いつでも会える」ということです。叔母が亡くなるとき、枕もとで叔母にお別れをしていた叔父はこう言いました。「僕たち夫婦の関係はこれからも続くんだよ」と。

私はこの言葉を聞いてはっとしました。死は永遠の別れでないのだ、と思いました。目に見える体はなくなり、声を聞くこともできないけれど、心の中に叔母がいるという新しい状況の中で、私と叔母の関係はこれからも続くのです。私と叔母の関係もこれからだ、と今心からそう思うのです。

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