台湾の妹と白血球の型が一致したとき、これで生きられると思いました 急性骨髄性白血病になり、抗がん剤治療と骨髄移植を経験した 元プロ野球選手・大豊泰昭さん

取材・文:吉田健城
撮影:河合 修
(2011年5月)

大豊泰昭さん

たいほう やすあき
1963年、台湾出身。元日本プロ野球選手。1988年、中日に入団。1994年、38本で本塁打王、107打点で打点王の二冠獲得。1998年阪神タイガースに移籍したが、2001年中日に復帰。2002年のシーズン終了後現役引退。その後は、中日のアジア地区担当スカウトや少年野球指導を担当。2004年、名古屋市内で中華料理店「大豊飯店」開業。

台湾出身の大豊泰昭さんは2009年の春、急性骨髄性白血病を発病。いったんは白血病細胞が消えたものの翌2010年3月に再発。そうなると方法は骨髄移植しかなくなるが、日本の骨髄バンクを当たったがHLA型が合う人は1人もいなかった。死の恐怖を感じながらも、大豊さんはこの絶体絶命のピンチをどう乗り切ったのだろうか。

強靭な元ホームランバッターを襲った、突然の病

大豊泰昭さん

現役時代、中日と阪神で14シーズン活躍した大豊さん

大豊泰昭さん

本塁打王、打点王に1度ずつ輝き、通算277本塁打、722打点という記録を残した

1990年代を代表するホームランバッターの1人に大豊泰昭さんがいる。

台湾から20歳のときに来日し25歳でプロ入り。中日と阪神で14シーズン活躍し、本塁打王、打点王に1度ずつ輝き、02年限りで引退するまで通算277本塁打、722打点という立派な記録を残している。

引退後は中日の台湾担当スカウト、少年野球の指導者として活躍する一方で、04年、名古屋市内に中華レストラン『大豊飯店』を開業し、多忙な毎日を送っていた。

強靭な身体、そして健康そのものだった大豊さんが、急に激しい疲労感に襲われるようになったのは09年2月のことだ。その後、首のうしろのあたりがものすごく突っ張るようになり、歯茎が腫れて熱いものを食べられなくなった。

そのことを知人の皮膚科医に話したところ血液検査をしてくれた。

「大豊さん、白血病の疑いがあります。うちは小さな病院なので、誤診があってはいけないから、もう1度大きな病院に行って詳しい検査を受けてください」

数日後、血液検査をしてくれた皮膚科医からそう告げられたとき、大豊さんは最近続いていた体の不調の原因が白血病によるものだったことを知った。心配したその皮膚科医は、大豊さんの知り合いでもあった、友人の外科医にそのことを伝えた。その外科医は早速店に飛んできて大豊さんの血液を採取した。その結果、翌日に急性骨髄性白血病である可能性が高くなった

29年後に解けた、悲しい謎

その病名を聞いたとき、大豊さんの脳裏に甦よみがえったのは29年前の悲しい記憶だった。

台北郊外にある華興高校時代、野球部の合宿で一緒だった先輩が白血病で亡くなっていた。その先輩が最後に食べたインスタント・ラーメンを作ったのは当時1年生の大豊さんだった。

「その先輩が『大豊、麺は冷めてから持って来いよ』というので、おかしなことを言う人だなあと思ったけど、29年後になって、その謎が解けました。白血病で歯茎が腫れて熱いものを食べられなかったんです。その先輩はそれから何日もしないうちに亡くなったので、僕も助からないと思いました」

大豊さんは血液検査をしてくれた外科医が紹介してくれた名古屋市内にある総合病院を重い足取りで訪ねた。

ひと通り診察と検査が済んだあと医師は急性骨髄性白血病であることを告げ、ただちに入院して抗がん剤治療を受けるよう勧めた。正式な病名や治療法以前に、大豊さんが知りたかったのは、生きられるかどうか、その1点だった。

「お医者さんに『この病気、治りますか?』と単刀直入に聞いたんです。そしたら自信が感じられる口調で『治ります』と断言してくれたんで、うれしくて涙が出ました。その言葉で頑張ろうという気持ちになりました」

大量の抗がん剤治療に痛めつけられながらも寛解に

入院後すぐに無菌室に移されて、抗がん剤の投与が始まった。急性骨髄性白血病の場合、まず、キロサイドとイダマイシンまたはダウノマイシンを使った寛解導入療法が行われる。

これによって約8割の患者さんが寛解の状態になる。寛解というのは骨髄の白血病細胞が5パーセント以下になり、正常な造血能力が回復した状態をいう。大豊さんも最初の寛解導入療法で寛解状態になったため、キロサイド単剤による地固め療法に移った。

こちらは5日間ずつ、1カ月のインターバルを置いて3回行われるが、寛解導入療法のときの20倍の大量のキロサイドが使用されるため、強い副作用がでる。患者さんの3パーセントくらいは、それが原因で死亡するといわれており、大豊さんもかなり痛めつけられた。

「抗がん剤のことは何も知らなかったので恐怖心は無かったけど、強烈な副作用が次々に出るので、これは大変な薬剤だと思いました。吐き気や脱毛は序の口で、足の親指の関節に激痛が走ったり、全身に霜降り状の発疹(斑状丘疹性皮疹)が出て、激しいかゆみに苦しみました」

しかし致命的な副作用は起きなかったため、用量は減らさずにスケジュール通りやり終えた。

「最後の投与が終わったときはホッとしました。お医者さんからは5年間再発しなければ完治だといわれたので、そうなることを祈りました」

 

キロサイド=一般名シタラビン イダマイシン=一般名イダルビシン ダウノマイシン=一般名ダウノルビシン 寛解導入療法=完全寛解の状態(骨髄中の白血病細胞が5パーセント以下で、末梢血・骨髄が正常化し、白血病の症状や所見が消失した状態)に導くための治療法

再発、そして味わった死の恐怖

大豊さんも死を覚悟したという

再発後、同じ病の患者さんが次々と亡くなっていくのをみて、大豊さんも死を覚悟したという

11月には髪の毛も伸びはじめ、あとは白血球の数値に5年間、異常が見られなければ治癒と認められる。しかし治癒するのは全体の35パーセントに過ぎない。

大豊さんも退院後4カ月は白血球の数値が5000台で正常だったが、5カ月目の昨年1月から下がり始め、2010年3月の検診で2600まで下がったため「再発」を医師から告知された。

大豊さんは、再入院を強いられた。入院後、大豊さんを襲ったのは、死の恐怖だった。ついこの間まで元気に挨拶を交わしていた、同じ病気の患者さんが次々に亡くなっていく。両隣のベッドの患者さんが亡くなり、部屋のネームプレートは、大豊さんのものだけとなった。大豊さんは、死を覚悟した。

再発の有効な治療法は骨髄移植しかなくなる。

再入院後、さっそく主治医が骨髄バンクに連絡をとってHLA型が合う人を探してもらった。

「骨髄バンクは、日本だけでなく、香港や上海や台湾にもあるので、大豊さん、信じて頑張ってください」と医師は励ましてくれたが、大豊さんは急性骨髄性白血病に関する本を読んでいたので、骨髄移植で同じHLA型が合わなかった場合は移植が難しいことを知っていた。大豊さんは強気な心は持っていながらも、自分の命が助かるという自信を持つことはできなかった。

そして、恐れていた通り、骨髄バンクでは、大豊さんと同じHLA型の人は見つからなかった。

HLA型は民族系等によって違いがある。大豊さんの家系は台湾人の中でも閩南(福建南部)系なので、福建省のあたりには一致する人がいる可能性があった。しかし、中国の骨髄バンクとの交流は始まったばかりで、多くを期待できないのが現状だ。

そのため、台湾にいる弟2人と妹を当たってみることになった。

 

HLA 型=ヒト白血球型抗原。白血球の型のこと

 

すぐに台湾から飛んできた3人の弟妹

両親が同じである場合、兄弟1人当たりの合致する確率は4分の1だ。大豊さんは、わずかな望みに賭けた。3人が揃って台北から名古屋まで来て4月11日にHLA型を調べることになった。

大豊さんのすぐ下の弟は、ロッテで3年間プレーしたあと、台湾のプロ野球でも活躍した陳大順(日本では大順将弘名でプレー)さん。末弟は若いころ重量挙げの台湾記録を作ったことのある高校の体育教師。妹さんも現在は結婚して主婦をしているが、若いころは陸上競技で鳴らした人で、全員がスポーツで実績があり、兄弟の結束も固い。

調べたところ妹さんとHLA型が完全一致することがわかった。

「検査結果を10日後に知らされることになっていたので行ったら、主治医の先生がはさみで封筒を切って、結果が記された検査票を読み始めたんですよ。もう、生きるか死ぬかの瀬戸際でしたから、横から身を乗り出して覗き込んだんです。そしたら妹のが完全一致しているのがわかった。もう万々歳ですよ。『これで、俺、助かった┅┅!』と思いました」

移植は骨髄をドナーの腰骨から抜くやり方ではなく、末梢血中の幹細胞を薬剤を使って増やし、それを採取して移植する同種末梢血幹細胞移植で行われることになった。

移植のプロセスは、まず6月7日と8日に妹さんから末梢血幹細胞の採取が行われた。それを受けて大豊さんも翌週入院し、抗がん剤投与と放射線照射を受けることになった。

骨髄移植前の大量抗がん剤投与で極限状態に

移植の前の抗がん剤治療は致死量に近い量を投与して残っている白血病細胞を叩く。そのため患者は生きているのがやっとという状態になる。しかも、その状態で放射線照射が2日間行われる。

「抗がん剤がきつくて放射線照射のときは死んだようになっていました。でも、感染を防ぐために、体を清潔に保たねばならないから、フラフラの状態でもシャワーを浴びなくてはいけない。本当にきつかったです。体を洗ったり拭いたりと、当たり前のことがきつい。間違いなくこのときが人生で1番つらかったです。放射線のあとは小水を漏らしているのも全然わからなかったですね。僕が履けるようなでかいオムツは無いので、トイレに座りっぱなしでした。しかも吐き気もひどく、その場でゲーゲー吐いていました」

こうした極限状態で移植が行われた。

移植後の第1関門は移植された細胞が正常な白血球を作りだしていること(生着)が確認できるかどうかだ。

「生着は自分で感じ取ることができました。トイレに行ったら急に腰が痛くなってどうしたんだろうと思ったんで、ベッドに大の字になっていたんです。そしたら、どんどんいい血が入ってくる感じがあるんです。主治医の先生にこのことを言ったら、生着を感じられる人と感じられない人がいて、感じられる人は一気に白血球値が高くなるというお話でした。翌々日の朝、計ったら2200という数値が出たんですが、みんな200、500、1000という感じで上がってくるものなのに、いきなりここまで高い数値が出たので驚いていました」

これに気をよくした大豊さんは主治医に早く退院したいというと「そんな簡単な病気じゃないんです。早くて2カ月、遅くて3カ月は入院することになります」とたしなめられた。

実際、白血球はそれからしばらく上がったり下がったりする状態が続き、免疫抑制剤の副作用である強い吐き気にも苦しんだ。