物言わぬがん患者から考えるがん患者へ変身した元巨人軍投手・横山忠夫
横山 忠夫 よこやま ただお
北海道網走市出身。55歳。
網走南ヶ丘高校でエースとして活躍し、3年の夏甲子園出場。
卒業後立教大学に進学し3年の春にノーヒットノーランを達成するなど神宮でも活躍。
1972年のドラフトで巨人軍から1巡目指名を受け入団。
4シーズン目の1975年にローテーション入りして8勝をマーク。
77年に自由契約になったあとロッテにテスト入団し1シーズン在籍後、引退。
1軍での通算成績は12勝15敗、防御率4.64。
入団3年目の1974年、イースタンで20連勝をマーク。同時に最多勝と防御率1位の2冠に輝いている。引退後、東京・池袋にうどんの店『立山』を開店。
新生「長嶋巨人丸」主力選手として活躍した現役時代
横山忠夫さんは数字だけ見ると7年間のプロ生活で12勝15敗に終わっているが、巨人ファン、とくに長嶋ファンにとっては忘れられない存在だ。昭和50年、新生「長嶋巨人丸」は、開幕から大きく負けが先行し、土砂降りの中での船出となったが、そのとき弧軍奮闘したのが長嶋監督と同じ立教大学出身の横山忠夫投手だった。
しかし、その年こそエース堀内に次ぐ8勝をあげ準エース的存在になったものの、それ以降は1勝しか挙げられず78年のシーズンを最後にユニフォームを脱いだ。
現役生活に悔いが残る形でピリオドを打った横山さんは「野球に未練が残るといけない」との思いから、有楽町にあるうどん店で一から修行したあと、母校立教大学にほど近い池袋西口の繁華街にうどんの店『立山』を開業。本格的な修行を積んだかいあって店の経営はすこぶる順調で、横山さんは額に汗して第2の人生で成功を収めた元プロ野球選手の1人と見なされるようになる。
繰り返される再発がんとの闘い
現福岡ソフトバンク監督の王さんとも
切磋琢磨した
勝利者インタビューを受ける横山さん
しかし、「好事魔多し」とはよく言ったもので、順風満帆だった横山さんの人生航路はがんという得体の知れない敵に行く手を遮られることになる。
「実は、肝臓にがんができる前、大腸がんをやってるんです。7年前のことですが、これは手術で完治したんですよ。肝臓に新しいがんが見つかったのは、それから3年後の2001年のことです。近くにある有名な国立大学病院の分院で、持病のようになっていた十二指腸潰瘍の治療のため入院した際、担当の医師に勧められて肝臓のエコー(超音波検査)も受けたところ、肝臓に小さなしこりのようなものがあるとわかり、その大学病院の本院で精密検査をしたら肝臓に3センチくらいのがんが確認されたんです。早速入院して外科手術でがんを取ってもらい、退院するときは、これで大腸がんも肝臓がんも完全に治すことが出来たと思いました。まだ、肝がんがどういう性質を持っているか、まったくわかっていませんでしたから」
しかし、これは「残肝再発」という得体の知れない敵との、長い戦いのほんの序章に過ぎなかった。原発性肝がんのうちの9割を占める肝細胞がんはC型ないしB型肝炎ウイルスを保持している場合、再発する割合がきわめて高くなる。とくにB型肝炎の場合は肝炎になっても自覚症状がでないことが多いため、肝がんが見つかって初めて慢性肝炎とわかるケースが多い。横山さんの場合もそうだった。
最初に残肝再発が判明したのは手術を受けて7カ月後のことだった。がんの再発が確認されたあと、横山さんは医師からすぐ肝動脈塞栓療法による治療を受けるよう勧められ、1週間ほど入院して大腿部の動脈からカテーテルを差し込んで行なうこの治療法を受けた。
退院後、治療効果を計る検査では、異常が何1つ見つからなかったので肝動脈塞栓療法は効果を挙げているように見えた。しかし、それでがんがいくつか消滅する間に、肝臓では、それを上回る数のがんが新たに発生していた。
それが、検査で見つかると医師はまた肝動脈塞栓療法を受けるように言った。勧めに従って、また1週間ほど入院したが、退院後にたどった経過は、前回とまったく同じパターンになった。
そうなると、横山さんも不安になってくる。
「不安だったのは肝動脈塞栓療法を1週間やったあとは、何の治療もしてくれなかったことなんです。しかも、回を追うごとに見つかるがんの数が増えていくんで、このまま行くとどうなるんだと不安になってきますよ。私が理解できなかったのは、肝臓のがんには、いろんな治療法があるのに、なぜ、新しいがんの発生を抑制する治療をしてくれないのかということなんです。肝動脈塞栓療法はそれに対してはまったく効果がないんだから、インターフェロンでもなんでもいいから、とにかく試してみたかったんです」
再発を抑える治療を受けたいという気持ちが強かった横山さんは、よく野球の指導に行っていた立教中学の関係者から虎ノ門病院肝臓科医師の斉藤聡さんを紹介された。
残された選択肢「生体肝移植」
横山さんが初めて虎ノ門病院を尋ねたのは2003年10月のことだ。すでに最初に肝がんが発見されてから2年近い歳月が流れていた。
虎ノ門病院では、最初から検査をやり直すことになったが、その結果を知らされたとき、横山さんは愕然とした。なんと肝臓に200個以上もがんがあるというのだ。すでに肝がんに関する本をいくつも読んでいた横山さんは、その数字が何を意味するのか見当がついた。斉藤さんもここまで悪くなると、通常の治療法で治すことは困難だという認識だった。
しかし、治療法がないとは言わなかった。
「横山さん、こうなると治療の方法は移植しかないです。生体肝移植というやつです」
斉藤さんは、がんが多数見つかったが血管に浸潤がないので生体肝移植は可能だと見ていた。もし、受ける気があれば、かなりがんが進行している患者でも引きうけて、実績をあげている京大病院を紹介することになるだろうという。
生体肝移植については*河野洋平代議士が長男の太郎代議士から肝臓の一部を提供されて手術を受けたこともあって、横山さんもこのころには、肝がん治療の選択肢の1つになったという認識は持っていた。しかし、引っかかるのは、元気な人の肝臓を切りとって移植することだった。
それに強い抵抗感を覚えた横山さんは、斉藤さんにほかになにかいい方法はないか訊いてみた。すると斉藤さんは抗がん剤を定期的に血管に送りこむリザーバーを皮膚の下に埋めこんで常時抗がん剤を投与する治療法があることを教えてくれた。しかし、最近それを受けた患者で1年以上生存したケースは1例しかないというので、横山さんはそれは気休めに受ける程度の治療法だと思った。
そうなると選択肢は1つしかない。生体肝移植である。
肝臓を提供してもらう場合、相手は20歳以上でなくてはいけないので、対象となるのは奥さんの敦子さんと長男、長女の3人だ。もし、手術を受けることになれば、この3人のうち誰かが犠牲にならないといけないが、現役時代ピッチャーより牧師向きの性格と評された横山さんは、一生に一度のオレのわがままなんだから家族も許してくれるだろうと割りきって考えることができなかった。性格的に器用でないのは、北海道・網走に生まれ、素朴な精神風土の中で育った横山さんの魅力の1つなのだが、このときはそれが決断できない最大の障害となっていた。
逆に家族は、移植を強く勧めた。長男、長女は斉藤さんに会い、何とか移植をして助けてもらいたいと訴えた。
なかなか踏ん切りがつかず店にいても仕事が手につかない状態だった横山さんは12月に入ってすぐの土曜日、兄貴分の堀内恒夫さんといつも参加していた身延山の祈祷道場の大祭に行った。横山さんは現役時代エースだった堀内さんに可愛がられ、うどん屋に転進することを思いついたのも、よく食べに連れていってもらったうどん屋の味が忘れられなかったからだ。
*「スペシャルインタビュー 河野洋平衆議院議長『息子からの贈り物、生体肝移植、全告白』」にくわしく載っています。ご参照下さい
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