白血病を乗り越えて現役復帰!「マウンド度胸」の男・岩下修一投手の1220日

取材・文:吉田健城
撮影:谷本潤一
発行:2004年7月
更新:2013年8月

  

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岩下 修一 いわした しゅういち
1973年静岡県生まれ。浜松工業高校から三菱自動車岡崎を経て、2000年にオリックス・ブルーウェーブに入団(ドラフト4位)。2年目の2001年7月、骨髄性白血病になる。神戸市内の病院に入院し、抗がん剤治療などを受け、日常生活に支障がない程度まで回復し、退院。翌02年のオープン戦で一軍に復帰した。

期待された入団2年目に白血病になる

「復帰してマウンドに上がったとき、打者を打ち取ることだけを考えました。喜びがこみ上げてきたのは、ベンチに戻ってから。あー投げられるようになったんだと実感しました」

岩下修一がプロ入りしたのは26歳の時だ。左のサイドハンドから繰り出すクセダマと、マウンド度胸、それに変化球のコントロールの良さを評価され、即戦力として期待されての入団だった。

1年目、岩下は44試合に登板し、1勝0敗(防御率3.86)、30.1イニングを投げ、31奪三振という見事な成績を残している。
一般の野球ファンから見ればこの数字は冴えないものに映るかもしれない。しかし、岩下は先発投手のように勝敗の数で評価が下されるようなタイプの投手ではない。

最近日本でも「レフティ・スペシャリスト」という言葉が使われ出したが、岩下はこのタイプの投手だ。ゲームの山場で味方がピンチを迎えたとき、左の強打者にぶつけるかたちで起用されるサウスポー。左のサイドハンドからクセダマを繰り出す技巧派が多く、ランナーを背負った場面で登場するため、マウンド度胸のよさが必須の条件となる。

このような特殊な使われ方をするため、レフティ・スペシャリストは打者1人か2人に投げただけでお役ご免になることが多い。44試合に投げて投球イニング数が30.1イニングしかないのはそのためだ。
こんな役回りなので、レフティ・スペシャリストは防御率が悪くなる。それを考えれば岩下が1年目にマークした3.86という数字は立派なものだ。
これだけルーキーイヤーに好成績を残せば2年目はかなり期待されるものだが、この大事な年に岩下は白血病に冒され、闘病生活を強いられることになるのだ。

原因不明の高熱に襲われたのは、野球シーズン真っ盛りの7月9日のことだった。
「熱が38度か9度くらいあったんで、家内(禎世さん)の運転で西神戸総合医療センターに行って診てもらったんです。そしたら検査の結果、血液に異常があるので血液内科に行くように言われ、そこで担当医の新里先生から急性骨髄性白血病だと告知されたんです。いろんな方から、告知されたときはショックで頭の中が真っ白になったんじゃないかと聞かれるんですが、そんなことはなかったし、パニック状態に陥ることもなかったですね。新里先生が、命に別状ないこと、4カ月入院して抗がん剤を使った治療を行えば11月には退院できることを、ぼくと家内に明言してくれたんで、死ぬようなことはないと思っていましたから」
すぐにでも入院する必要があるといわれた岩下は、1日だけ猶予をもらい球団や両親に報告したあと、長期の入院に備えてロッカーを引き払った。

不安と希望が絶えず交錯する日々

入院した当初、岩下はがん患者というよりは、まだ野球選手だった。鉄アレイを病室に持ち込み、復帰の日に備えて筋肉が少しでも落ちないようつとめていたし、食事も残さず食べて体重が減らないよう心掛けた。
しかし、抗がん剤の投与が始まると状況は一変した。
抗がん剤の投与は11月まで毎月1回、計4回に分けて行われることになっていた。1回の投与は1週間ぶっとおしで行われ、翌月体力を回復したころでまた次の回の投与が始まるようにプログラムされていた。

抗がん剤は点滴を使って投与するので、患者は1日中ずっとベッドに縛りつけられた形になる。しかも、強い副作用があるので、何もできないし、する気にもならない。
事前に副作用については詳しい説明を受けていたので、ある程度覚悟はしていたが、いざ実際に吐き気におそわれ、頭の毛が抜け落ちるようになると、退院後のことなど考えている余裕はなくなった。
こうなると、筋肉も見る見る間に落ちていく。それに比例して岩下の気持ちもどんどん弱くなっていった。

「入院して2カ月目くらいですね。気持ちが一番弱くなったのは。抗がん剤の副作用で、髪の毛が抜けたのがまずショックでした。抗がん剤は投与される人間に体力があれば副作用はそんなにひどくないんです。だからぼくも投与される分量が標準レベルだったらもっと楽だったはずです。でも、あの時は早く直したい一心で先生に標準的な分量の何倍も抗がん剤を投与してもらっていたんです。それで、けっこう副作用が出たんだと思いますが、それだって、ほかの患者さんに比べれば、たいへん軽いものでしたけどね。

もう一つ、ぼくを弱気にさせたのは、テレビです。テレビを1日ずっと見ていると、けっこうがんを扱ったものが出てくるじゃないですか。それを見て、なまじ知識が少しついたので、俺は大丈夫なんだろうか、またマウンドに立てるのだろうかと不安感に襲われるようになったんです。

でも、ずっとそんな思いにとらわれているわけじゃなくて、苦しいのは抗がん剤をやっている間だけなんだから、先のことをあれこれ考えても仕方がない。自分のことを運の悪い人間のように思うのはよそう。人の人生なんていつ突然交通事故で死ぬかも知れないんだし、野球やっていても、当り所が悪ければ死ぬんだから、いまできることを精一杯頑張るしかないじゃないか、と前向きな気持ちになることもあるんですよ。この悲観的な気持と、前向きな気持が絶えず交錯していましたね」


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