想像を絶する体験をしたからこそ言える「子宮頸がんは撲滅できると思います」 子宮頸がん予防の啓発を続ける女優・仁科亜季子さん
1953年、歌舞伎俳優十代目・岩井半四郎の次女として生まれる。1972年学習院女子高等科卒業後、NHKドラマ「白鳥の歌なんか聞こえない」でデビュー。その後約6年間NHK大河ドラマなどで清純派女優として活躍。結婚を機に1979年~1998年の芸能活動休止を経て、1999年春に芸能界復帰。自身の経験を元に、がん治療に関する講演を行うなど、幅広い活動を行っている。
歌舞伎役者を父親に、女優を母親に持つ仁科亜季子さんは、高校3年生で芸能界に入った。結婚後、2人の子どもにも恵まれ順風満帆と思われたが、38歳で子宮頸がんの告知。手術後も思いもよらぬ後遺症に悩まされた。しかし、常に前向きなポリシーで乗り切り、今は若い世代へのがん予防啓発活動に力を入れる。その気持ちを聞いた。
娘の出産以後していなかった、婦人科検診を勧められた
1991年の大型連休、仁科さんは家族や友だちの家族と台湾旅行の計画を立てた。小学校受験を終えた長女・仁美さんをはじめ、みんなが楽しみにしていた行事だった。
出発前夜に、ちょっとした出来事があった。
「おなかが痛くなったんです。私だけ食べたものにでも“あたった”のかなと思いました。子どもじゃなくてよかったとも」
旅行中は観光もままならず、おいしい中華料理も食べられずにうなっていた。もし、感染性のものだったらいやだなと、帰国後、仁美さんを出産した関西医大病院の内科医師を訪ねた。検査の結果は内科のほうは異状がなかった。以前から親しかったこの医師と雑談になった。
「私、もう更年期障害になっちゃったのかしら」
まだ、38歳。そんな年齢ではないと思っていたが、不正出血が気になっての質問だった。それまでも生理は不順ぎみだったので、深刻には考えていなかった。
「入院は出産のときだけで、大病をしたことはありませんでしたし、大したことはないだろうと思っていました」
娘の出産以後していなかった、婦人科検診を勧められた。細胞診などを受けた。
婦人科の医師に、
「少し気になるところがあるので、また来てください」
と言われ、1週間後の次の検査にはコルポ診を受けた。
「なぜ私が?」
検査から4日後、結果を聞きに行った。医師は「きょうは、おひとりですか? ご家族は一緒に来ていませんか?」と前置きした。同行者はいなかった。
「先生、おっしゃってください」
「子宮頸がんです。1日も早い治療が必要です」
ショックだった。当時はがんは死ぬもの、と思っていたから。子宮頸がん? 初耳だった。ステージはⅠb期だった。
「『なんで私が……』というのが正直な気持ちでした。でも一方で、『がんになった臓器を取ればそれで済むのでは』と無知なるがゆえに楽観的な自分もいました。入院も1カ月くらいで済むと思っていました」
しかし、医師の話は想像以上に深刻だった。「入院は6カ月」と言われた。手術の前後に抗がん薬や放射線での治療が必要と説明を受けた。
「がんにはいろいろな性格があるということですが、私のはひねくれものだったみたいです」
想像絶する抗がん薬治療「子どもたちのためにも…」
仁科さんの一番の心配は、8歳の息子と6歳の娘のことだった。
「夏休みを挟むことになります。私がいなければ絵日記ひとつ書けないのではと思いました」
子どもたちには「おなかに悪い虫さんがいるの。それを退治しなければいけないの」と説明した。小さいながらしっかりと理解しようとする子どもたちを見て、「必ず良くならなければ」という気持ちを強くした。
入院後、治療計画が示された。抗がん薬療法でがんを小さくしたあと、子宮だけでなく、卵巣や卵管、リンパ節まで広汎に切除することが告げられた。子宮を失うことは覚悟していたが、事の重大さに改めて心が揺れた。
「負けてはいけない」――
抗がん薬治療が始まった。
「全く経験のない、想像を絶する苦しみでした」
足の付け根の血管から抗がん薬を注入する動注療法を始めたときの様子を、著書『子宮頸がん―経験したからこそ伝えたい!』(潮出版社)の中で次のように語っている。
〈強いて例えるならば道路工事のすさまじい現場です。コンクリートで固められた地面を「ガッガ、ガッガ、ガガガガガガ……」とけたたましい轟音を立ててドリルが打ち砕いていく。そのような状況がお腹のなかで繰り広げられていました〉
仁科さんは、耐えた。
死なないぞ死ねないぞ
「治療を医師の方々に任せた以上、自分は歯を食いしばるしかありません。38歳で死ぬわけにはいきません。死なないぞ、死ねないぞ、と」
子どものころから負けん気の強かった仁科さんは自分自身に何度も叫び続けた。しかし、3分もじっとしていられない嘔吐は耐えることができても、つらかったことがある。
〈私は手を頭にまわし、髪をそっとつかんだ瞬間、「あっ」と声をあげてしまいました。髪が何の抵抗もなくこぼれるように抜けるのです。(中略)覚悟はしていたものの、言い知れぬ恐怖とあまりの衝撃に、体がガタガタと震え、涙がこぼれました〉(同著より)
仁科さんを立ち直らせたのは、やはり2人の子どもたちだった。
「子どもたちは髪の抜けた私を『一休さんみたい』『マルコメくーん!』と頭をなでてくれました。私にとっては本当に子どもたちの存在自体ががんと闘う原動力でした。明るい反応に救われました」
手術は発見から3カ月後の8月6日だった。広汎な切除は大掛かりなもので、5時間半に及んだ。
持ち前の強気と前向きさで乗り切った。手術は成功した。術後の放射線治療も進んで受け、その回数は28回にのぼった。
10月2日、当初の医師の予測より2カ月早く退院した。しかし、がんとの戦いは終わらなかった。
受け入れなければならないこと
「がんに対しては、私のいのちと引き換えでした。後遺症も、受け入れなければいけないと思いました」
後遺症は、手術後すぐに現れた。
「『ホットフラッシュ』というのですが、急に暑く感じる。そのあとはものすごく寒くなる。真夏なのに毛布を体に巻きつけても震えていました」
卵巣も切除したため、ホルモンバランスが狂ったのが原因だった。
「まだ働き盛りの卵巣を取ったわけですから、徐々に現れる普通の更年期障害よりも症状はとてもきつかったようです」
ホルモン薬による治療を受けた。それは今も続く。当初は通院しながら免疫を高める点滴も受けた。
後遺症はそれにとどまらなかった。しばらくは近い人々にしか知らせなかったが、女性にとってとても切なく深刻な問題が起こった。婦人科の外科手術後に多く現れる排尿障害に悩まされた。広範囲に及ぶ手術の中、排尿に関する神経も傷つけられてしまったことが原因のようだった。
一定時間おきにトイレに行くようにし、腹筋を使う。つらい思いは現在も続くという。
「手術から5年治癒と言われますが、肉体的に手術前に戻ることは不可能です。いったんがん患者となったなら、一生がんと闘い続けなければいけません。後遺症ともつきあわなければなりません。受け入れるしかないのです。長く付き合っていくしか」
悟りにも似た自己哲学を話した。
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