鎌田 實「がんばらない&あきらめない」対談

飄々とした生き方こそがんとの付き合い方の見本 俳優・藤村俊二 × 鎌田 實

撮影●板橋雄一
構成●江口 敏
発行:2010年7月
更新:2019年7月

  

「がんばらない」から「がんばる」生き方への「オヒョイ」流転換

早稲田大学演劇科を中退したあと、パントマイム、振り付け、俳優、声優、タレントなどの分野で、飄々とした存在感を発揮してきた藤村俊二さんは、50歳を過ぎてから「病気の宝庫」を自認するほど、大病を繰り返してきた。56歳のときには胃がんの手術で、胃の3分の2を切除している。しかし、「オヒョイ」の愛称どおり、飄々たる生きざまは変えなかった。

 

藤村俊二さん


ふじむら しゅんじ
昭和9年、神奈川県鎌倉生まれ。早稲田大学文学部演劇科2年中退。東宝芸能学校舞踊科第1期卒。日劇ダンシングチーム(NDT)第12期生。昭和35年、NDTのヨーロッパ公演に参加後、イギリスに滞在し、その後単身パリでパントマイムを学ぶ。帰国後、NDTを退団し、振付師としてテレビやコマーシャルに関わり、俳優としてもデビュー。その後、俳優、声優、タレントとして、映画、テレビ、舞台などで幅広く活躍。主な著書に『オヒョイのジジ通信』など

 

鎌田 實さん


かまた みのる
1974年、東京医科歯科大学医学部卒業。長野県茅野市の諏訪中央病院院長を経て、現在諏訪中央病院名誉院長。がん末期患者、お年寄りへの24時間体制の訪問看護など、地域に密着した医療に取り組んできた。著書『がんばらない』『あきらめない』(共に集英社)がベストセラーに。近著に『がんに負けない、あきらめないコツ』『幸せさがし』(共に朝日新聞社)『鎌田實のしあわせ介護』(中央法規出版)『超ホスピタリティ』(PHP研究所)『旅、あきらめない』(講談社)等多数

英国で新築した家を移築しワインバーを開く

鎌田 このワイン&バー「オヒョイ’ズ」は、大きなマンションの地下1階部分につくられていますが、素晴らしい造りですね。

藤村 イギリスで造り、それを全部移築しました。クギを1本も使わず、杭を組み合わせていくハーフティンバー方式です。向こうの宮大工さんに作ってもらったようなものです(笑)。

鎌田 それをコンテナで運んだわけですか。

藤村 そうです。向こうで建てたものを、1回バラして運びました。こちらに到着した時点で、向こうから2人の大工さんに来てもらい、改めてここに建ててもらいました。

鎌田 しかし、ビルの地階に組み込むわけですから、大変だったでしょう。

藤村 7メートルの梁を入れるために、クレーンを呼んだり、ガラス戸をぶち抜いたりしました。厨房以外は全部向こうで造ったものです。家具も特注しました。本当に大変でした(笑)。

鎌田 ワインバーをやるために、この家を造ったようなものですか。

藤村 まあ、そうですね。知り合いのフランス料理のベテランシェフにも来てもらいました。もう14年になります。

鎌田 藤村さんのご自宅もこんな雰囲気ですか。

藤村 そうですね。好きなんですよ、こういう感じが。最初に行った外国がイギリスだったせいか、イギリスの建物で、アメリカのジャズを聴き、フランスのワインを飲みながら、日本人の口に合った西洋料理を食べる。これが好きなんですね。

鎌田 藤村さんとは初めてお目にかかりますが、こういう空間といい、藤村さんの雰囲気といい、とてもおしゃれですよね。

藤村 いやいや、結局、自分が落ち着く場所がほしかったんですね。

鎌田 藤村さんはいろんなことにこだわるほうですか。

藤村 こだわりの固まりみたいなもんですね。こうじゃなきゃイヤだ、というものがありますね。このフロアーも、「女性がヒールで歩いたとき、コツコツと言わせてくれ」と頼みました。そうしたら、音響を考えて、フロアーを直に敷かないで、能舞台のように少し吊る形にして敷きましたね。

鎌田 ここで働く女性やここへ来る女性のお客さんには、コツコツという音を出して歩いてもらいたいと(笑)。

藤村 コツコツと上品に歩いてほしいですね(笑)。

鎌田 歩き方は大事ですか。

藤村 舞台をやっていて教わったのは、舞台では人の邪魔をしないように歩け、ということですね。

ロンドンのミュージカルに圧倒されパントマイムに進む

鎌田 藤村さんはたしか、最初はパントマイムでしたよね。なぜパントマイムから?

藤村 話せば長くなりますが、本来は演出家になりたくて早稲田文学部演劇科に入りました。しかし、授業では理論とか歴史ばかり教えるので、つまらないんです。また、歌や踊りや芝居ができないのに演出を行うのはおかしい、という気持ちもありました。そこで、自分は芸を身につけてから演出をやろうと考え、東宝芸能学校に入って、歌や踊りを習い始めたわけです。そして、東宝ミュージカルで初舞台を踏みました。3年後ぐらいに日劇ダンシングチームがヨーロッパ公演をすることになり、その一員としてヨーロッパを回りました。その最初の国がイギリスだったのです。

鎌田 それがこの店につながっている。

藤村 そういう部分はあると思います。「TOKYO1961」という出し物を持って、グラスゴー、エジンバラ、ノッティンガム、マンチェスター、リバプール、ロンドンなどを回り公演しましたが、ロンドンで初めて本場のミュージカルを観て、歌にしても、踊りにしても、芝居にしても、その素晴らしさに圧倒され、こりゃダメだと思いました(笑)。そのとき、歌も踊りも芝居もダメなら、パントマイムしかないと思って、単身パリに渡ってパントマイムを学んだわけです。

鎌田 すごい戦略的な選択ですね。

藤村 いま考えると、そうかもしれませんが、随分遠回りをしたなと思います。

鎌田 当時、日本ではパントマイムは斬新だったのでは?

藤村 いや、パントマイムをやる人は結構いましたよ。ただ、題材が苦悩とか、情熱とか、彷徨とか、抽象的なんですよ。私がヨーロッパで学んだのは、マルセル・マルソーに代表される、普通の生活に根ざしたパントマイムです。

鎌田 そこで学んだものは、いまでも藤村さんの芝居のなかに生きていますか。

藤村 自分では意識していませんが、観た人からそういうことを言われたことはありますね。

53歳で肺気胸を患って以来「病気の宝庫」になった

鎌田 さて、藤村さんは芝居をやり、このお店をやってこられた間に、いろんな病気を体験されていますね。

藤村 いろいろやりました。もう「病気の宝庫」ですよ(笑)。最初にやったのが、肺気胸ですね。昭和63年、53歳のときです。当時、毎年恒例になっている横浜での仕事がありました。前夜から横浜のホテルに入り、友だちを呼んで中華街で夕食をとり、お酒を飲んでいるとき、急に苦しくなってうずくまってしまいました。病気に詳しい友人が、「それ、肺だよ」と言うので、そのままホテルに戻ってシャワーを浴び、マッサージでも受けようと考えて、ホテルに向かったのですが、その途中で倒れて病院に運び込まれました。

鎌田 危なかったですね。

藤村 あのままホテルにたどり着いて、シャワーを浴びたりしていたら、死んでるところでした。病院へ運ばれて助かりました。運がいいんですね。ただ、そこでじっと入院していれば良かったのですが、病院の食事はまずいし、仲間たちに入院していると言われるのもしゃくだから、独断で退院してしまったのです。

鎌田 不良患者だ(笑)。

藤村 退院して2、3日したら、また苦しくなりました。大きな病院にいる同級生の医師に電話すると、「すぐ来い」と言れたので、行くと、「おまえ、こりゃダメだ」と言われました(笑)。当時、先に肋骨をこじ開けてから病巣を取り出すのが普通だったようですが、私の場合は歳ですから、複雑骨折するといけないということで、先に肋骨を3本切ったようです。

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