鎌田 實「がんばらない&あきらめない」対談

がんの知識を集めれば集めるほど、彼は「がん患者」に仕上がっていきました 作家/慶應義塾大学文学部教授・荻野アンナ × 鎌田 實

撮影●板橋雄一
構成●吉田健城
発行:2007年11月
更新:2018年9月

  

がんとは何かという問いの中で、揺れながらも向き合った2人の心の軌跡

このほど、芥川賞作家で慶應義塾大学文学部教授の荻野アンナさんは、食道がんで逝ったパートナーと自分ががんと向き合った1年2カ月の軌跡を1冊の小説にまとめ刊行した。タイトルは『蟹と彼と私』。今回はこの小説に描かれたがん闘病の日々と、小説が誕生するまでの道のりをアンナさんとともに辿る。

 

荻野アンナさん


おぎの あんな
作家。慶應義塾大学文学部教授。神奈川県横浜市生まれ。父はフランス系米国人。母江見絹子は画家。小学生時代に日本へ帰化。慶應義塾大学文学部仏文科卒業。フランス政府給費留学生としてパリ第4大学に留学し、ラブレーを研究。應義塾大学大学院博士課程修了。平成3年『背負い水』で芥川賞受賞。平成14年『ホラ吹きアンリの冒険』で読売文学賞受賞。平成17年11代目金原亭馬生師匠に弟子入り、金原亭駒ん奈を名乗る。平成19年フランス教育功労賞シュヴァリエ叙勲

 

鎌田 實さん


かまた みのる
1948年、東京に生まれる。1974年、東京医科歯科大学医学部卒業。長野県茅野市の諏訪中央病院院長を経て、病院を退職した。現在諏訪中央病院名誉院長。同病院はがん末期患者のケアや地域医療で有名。著書『がんばらない』『あきらめない』(共に集英社)がベストセラーに。近著に『がんに負けない、あきらめないコツ』(朝日新聞社)、『この国が好き』(マガジンハウス)、『ちょい太でだいじょうぶ』(集英社)など

主人公の座を占めていたがん

鎌田 アンナさんとじかにお会いするのは、今回が初めてなんだけど、2003年に『がんばらない!』(集英社刊)の文庫版が出たとき解説を書いていただき、電話でもお話しているので、初対面という感じがしませんよ(笑)。

荻野 私もです。文庫版の解説を書かせていただいたときは、近いうちお会いできると思っていたのですが、あのあと彼が食道がんで入院することになり、それどころではなくなってしまったんですね。

鎌田 アンナさんがこの8月に出された『蟹と彼と私』(集英社刊)を早速読まさせていただいたので、その辺の事情はよくわかりました。この本の中にパートナーの方が食道がんだとわかったのは2004年4月と記述があるので、文庫版の解説を書いていただいた時点では、まさかパートナーががんに冒されているなんて夢にも思わなかったわけですね。

荻野 そうです。今思えば、彼の体の中にはすでに小さながんができていたはずですが、何の徴候もありませんでしたから。

鎌田 『蟹と彼と私』というタイトルはどんなところからきているのですか。

荻野 がんのことをいろいろ勉強していくうちにキャンサー(がん)の語源が蟹であることがわかったんですね。それも古代ギリシャのヒポクラテスのころから、がんには、ギリシャ語で蟹を表すカルキノスという言葉があてられているんです。これは進行した乳がんの状態が蟹の甲羅のように見えることからきているようですが、そういう知識が増えていくうちに自分の中で「がん=蟹」というイメージが強くなったので、がん細胞を蟹にたとえ、擬人化して蟹くんたちが漫才をするというところから小説を始めたんです。タイトルは最初からなんとなく『蟹と彼と私』かなあという感じでしたが、絶対これというわけでもなかったんです。でも書き終えてみると、主人公は「彼と私」だけでなく、がんも完全に主人公の座を占めていることがよくわかるので『蟹と彼と私』しかないと思いました。

鎌田 いいタイトルだと思います。でも書店に行った人は、どんな種類の小説なんだと思うんじゃないですか。

荻野 「プレゼンテッド・バイ・かに道楽」と思って読んだ人は気の毒ですよね。中を開くと美味しいかにが食べられなくなるようなことが書いてあるんですから(笑)。

がんとは何か。小説で表現するには

鎌田實さん

鎌田 しかも出だし「かに1」と「かに2」が出てきて漫才コンビの乗りで掛け合いをするでしょう。本を手にとった人は、余計面喰らうかもしれません。実はこれが絶妙の黒子になっているんですけどね。がんを「かに1」「かに2」という形で擬人化したのはなぜですか。

荻野 彼ががんになってから専門書やがんに関連する本を買い漁って片っ端から読んだんですね。そうするとわからないなりに、がんとは何かという問いが膨らんでいくんですよ。それに対して小説の形で表現するには、擬人化したり、幻想シーン仕立てにしたりして、徹底的にフィクション化するしかないと思ったんです。

鎌田 この本のユニークな点はそういった手法が大胆に用いられている一方で、随所に2人の心の風景が見事に描かれている点です。
僕が、読み始めて最初にすごい表現だと思ったのは、告知された翌々日に2人で八重桜が咲き誇る並木を、冷えたシャンパンを飲みながら、飽きずに往復する場面でした。
そこには「今を逃がせば、世界から桜が消滅する。音の消えた午後、風も死んで、花は宙で凝固している。低い昭和のビルが並ぶ通りを、飽きずに往復した。グラスから、ひとくち含んでは相手に渡し、やがて泡の消えた液体の、最後の一滴も飲み干しても、グラスは冷えたままだった」とあるんです。
短い文ですが、告知された人間とその家族の気持ちが行間ににじみ出ていて、なんだか2人の心の温度が伝わってくるようです。このときは、どんな思いだったんですか。

知を集め出してから病人になった

荻野アンナさん

荻野 やはり告知された瞬間から、世界が暗転する感じはありましたね。でもその一方で、普段は寡黙で優柔不断な彼が、意外な強さも見せたので、多少安心した面もありますね。というのは、彼は風邪が長引いているなという程度の気持ちで近所のお医者さんに行ったら、その場で胃カメラを飲むことになり、がんが見つかったんです。しかも戸籍上は独身なので、本人に言うしかないということで、その場でお医者さんから、かなり酷いということを聞かされているんですね。
それなのにけっこう冷静で、病院からの帰りもちゃんとクリーニング屋さんに寄ってでき上がった洗濯物を取って帰宅しているんです。
彼が病人に仕上がっていったのは、そのあとですね。がんに関する知識を集めれば集めるほど、自分の置かれた状況がわかってきますから。

鎌田 『蟹と彼と私』は、全体としてはシリアスな本なのですが「男は黙って抗癌剤」みたいなギャグや駄洒落が随所に出てくるので、がん患者さんが読んでもメソメソしないんじゃないかと思います。
アンナさんは大の駄洒落好きで有名ですが、落語にも打ち込んでいて高座名までお持ちなんですよねえ。

荻野 はい。落語は3年前からやっていまして金原亭駒ん奈という名前を師匠の金原亭馬生師匠に付けていただきました。何か困ったことがあって「コマンナ」になったのではなく、馬生師匠の弟子は前座の場合みんな「駒」が付くんで、駒の字とアンナをドッキングさせて「駒ん奈」になったんです(笑)。

鎌田 ほかのことを忘れて落語に打ち込める時間があったことで、ずいぶん救われたんじゃないですか。

荻野 はい。両親が数年前から病気やケガで交代で入院するようになったところに、彼のがんでしたから、精神的にかなり参っていたんですよ。ですから、まったく関係のない時間を持てたことはけっこう大きな意味があったと思っています。

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