がんになっても、以前と変わらない「普通の生活」ができるようにしたい
豪華客船「飛鳥」の第1期乗組員
神奈川県在住の沖原さんは1962年の元旦生まれ。短大の英語科を卒業して日本マクドナルドに入社し、販売促進を担当した。20代の終わりを迎えたころ、自分の人生はこのままでいいのか、ほかにやりたいことはないのか、と考える自分がいた。もともと海外志向で、海外へ出かけていく仕事に憧れを持っていた沖原さんは、転職を決意。選んだのは豪華客船「飛鳥」の乗組員の仕事だった。
かつて世界1周クルーズといえば外国の船の専売特許だったが、日本の船による世界1周クルーズを計画したのが日本郵船の関連会社・郵船クルーズ。クルーズ専用の「飛鳥」が建造され、第1期乗組員の募集を知った沖原さんはさっそく応募し、採用された。
2年半の乗務のあと、本社へ異動となり、今度は商品開発を担当するようになった。モーレツな忙しさで、独身のまま35歳で課長に抜擢。しかし、やがて彼女は「このまま仕事をしていたら、自分は死んでしまうのでは」というほどのストレスを感じるようになる。37歳になった冬、首の腫れが気になり、受診したところ、レントゲン検査で肺がんが見つかった。
自分の道は自分で決める
「99年の8月に肺がんの告知を受け、そのときは『たぶん1期でしょう』と医者からはいわれました。でも、9月に右肺下葉を切除する手術を受けてリンパ節への微小転移が見つかり、2A期と診断されました。それまでは転移の可能性など考えていなくて、がんを取ればそれで終わりだと思っていたのが、転移のある2A期だと再発の可能性が高くなり、5年後生存率も、当時は1期が72パーセントだったのに、2期だと37パーセント。とたんに自信をなくして、もう長いことないのかなと思ってしまいました」
自分は死んでしまうの? それとも生きられるの? あと何年? 沖原さんはしきりに主治医に聞いたが、こんな言葉が返ってきた。
「あなたが生きているかどうかはゼロか100でしかない。数字はあくまで過去の統計でしかないから、あなたに当てはまるわけではないんですよ」
その言葉に合点がいった。5年生存率、術死の可能性、再発率などなど、がんにはさまざまな数字がつきもので、どれも科学的なデータに思えて、つい自分の身に当てはめてしまうが、必ずしもデータ通りではない。自分が37パーセントの中に入るかどうかは、医者も患者本人も、だれもわからないのだ。
がんとわかってどんな治療を選ぼうとも、その結果どうなるかは医者でも断言できず、患者自らが選択し、その結果を受けとめるしかない。つまりは、自分の道は自分で決める・・自らの考えで選択、納得し、責任をとるしかない・・ということをこのとき学んだ、と沖原さんは振り返る。
死を考えつつ「患者のサポートを」
02年東京医科歯科大学精神看護学で学生相手に講義中
一方で、そう遠からず自分は死ぬ可能性もある、とも思った。
手術から3カ月後の12月、会社に辞意を表明し、翌年退職。残された時間が短いかもしれない、というのが辞める理由だったが、彼女の中にはもう1人の「生きよう」とする自分がいて、看護学校を受験し、大学に入り直して、心理学と宗教学を学んだ。その動機を沖原さんはこう語る。
「私の場合は、自分が疑問に思ったりしたことを医者にはっきりと伝えることができたので、不安も不満もあまりなく入院生活をすごせました。でも一方で、お年寄りのがんの患者さんがいて、つれ合いもお年寄りで、2人で右往左往している姿を見たりして、そういう人たちを見るにつけ、この人たちと医療者の間に入って、何かサポートできることはないか、と考えたんです」
がん患者になって、沖原さんはがん関連のシンポジウムや講演会に「行きまくった」という。「少しでも情報を得たくて、どこかに行って何かをしていないと、気がすまなかった」と述懐する。
患者自身が意見をいうことの重要性
02年セルフヘルプグループのおしゃべり会で
がんに関する情報を提供するNPO法人(特定非営利活動法人)キャンサーネットジャパン(CNJ)のシンポジウムに参加したときだ。医者が集まって、よりよい医療の実現を目指してさまざまな活動を行っているCNJを知り、自分に何かできることはないか、と思った。
「告知後のがん患者のサポートをしたいのですが、どうすればいいですか?」と主宰者の医師に話しかけた。
すると、「日本にはまだ、患者の心理社会的なサポートをするシステムはありません。あなたが始めてください」といわれた。
その1年半後、雑誌に連載していた体験談をきっかけに知り合った数名で、肺がん患者と家族のための会である「カイネ・ゾルゲン」(ドイツ語で「心配ないよ」の意味)、30代・40代の女性がん患者の集まり「30―40」といったグループを設立し、その主宰者となった。いずれも、インターネットのメーリングリストでの交流を中心とした、「自立した患者同士で支え合う」ゆるやかなグループである。
非小細胞肺がんの治療に用いられる「イレッサ」の副作用が問題となり、承認取り消しの議論が盛んになった05年2月には、イレッサの承認継続を求める意見書を厚生労働大臣宛に提出した。それは、グループのメンバーとの話し合いと、それまでの自身の患者仲間との係わり合いにもとづくものだった。「あなたが生きているかどうかは、ゼロか100でしかない」と、かつての主治医の言葉。その言葉の通り、患者にとって重要なのは、統計データの条件に自分が当てはまるかどうかではなく、その薬が自分に効くかどうかということ。少なくとも、効いていることに感謝している、ほかに選択肢のない患者からイレッサを取り上げるべきではない、と主張した沖原さん。意見書を提出してみて、患者自身が自分のために意見をいうことの重要さを痛感したという。
患者に優しい旅行の企画・添乗
がんになっても、がんになる前と同じような生活ができるようになってほしい、というのも沖原さんが掲げるテーマだ。
「がんになると、その名前に圧倒されて、打ち負かされた気持ちになってしまう。告知を受けた前後で生活が一変してしまったように感じる体験を自分もしたけれど、そこからどうにかして脱出してほしい」と沖原さん。
「『自立した患者』とは、精神的な立ち直りの過程を意味しています。そのためのいろいろな仕掛けを考えて作ってきました。これからも、何らかの形で活動を続けていきたい」
昨年3月、大学を卒業。学生時代は比較的自由な時間が多かったため、患者会の活動にも時間を割くことができたが、卒業後は社会復帰し、仕事が忙しくなり主宰者を辞めることにした。もちろん、今もメンバーの1人に変わりはなく、活動は継続中だ。
卒業後、沖原さんが始めたのは海外旅行の添乗員の仕事だ。在学中に旅程管理者の資格を取得し、今は世界の各地を飛び回る日々。添乗員が患ってがん患者になることはあっても、がん患者が自ら志望して添乗員になるなんて、あまり聞いたことがないのではないだろうか。
彼女がめざしているのは、がん患者に優しい旅行の企画・添乗。これも実は、がん患者が普通に生活を送るようサポートする沖原さんの活動の一環なのである。
「一般のツアーだと、日程がきつかったり、食事の内容や時間に問題があったり、がんの患者さんには厳しいことが多い。それで、とても無理だと思ってしまう人もいるのではないでしょうか。諦めてしまった旅行にもう1度挑戦してもらえるように、計画を立てているところです」