癌と共に生きる会 会長/橋本榮介
患者と医者が真に平等であるために、患者自身ができることをする

撮影:坂本政十賜
(2004年1月)

橋本榮介

はしもと ひですけ
1938年生まれ。県立高等学校教諭を定年退職後、99~03年まで兵庫県立教育研究所「ひょうごっこ悩み相談センター」相談員。90年に肝臓がんの部分摘出、99年の肺多発転移による抗がん剤治療をはさんで、97年の胸壁転移、01年には肺多発転移を手術により摘出している。

俵  萠子

たわら もえこ
大阪外国語大学卒。サンケイ新聞記者を経て1965年より評論家・エッセイストとして活躍。95年より群馬県赤城山麓の「俵萠子美術館」館長。96年乳がんで右乳房切除。01年11月、「1・2の3で温泉に入る会」発足。



患者本意の医療をめざして、患者団体の協議会も設立

 橋本さんはつい先ごろ、「癌と共に生きる会」の会長になられたのね。

橋本 前会長の新山義昭さんが昨年の10月末の総会の、1週間前に亡くなったのですが、会長なしでは総会ができないというので、急きょお引き受けしました。でも、実質動いているのは別な方々で、私は名目だけ(笑)。それでも、私なりに平岩イズムはもっているつもりですし、平岩先生が患者のためにやってくれていることに、たいへん感謝しています。

 「癌と共に生きる会」は、現在フリーの立場で複数の病院の空きベッドなどを利用して治療を続けておられる、平岩正樹先生にかかっている患者さんの会ですね。行政への働きかけなど政治的な活動もしておられますが、今、会員は何人くらい?

橋本 患者とその家族、遺族をふくめて、現在80名です。

 昨年はほかの3団体とJCPCも設立されましたね。

橋本 外国で認可されている薬を日本で認可してもらうためには、厚労省(厚生労働省)を変えるしかない。が、そのためには「癌と共に生きる会」では人数が少なすぎて動けない、というので、新山さんが呼びかけたんです。

日本のがん患者会には、慰め合いや親睦を目的としたホスピス的なものと、東洋医学や代替医療を軸にしたものが多いですが、「西洋医学が重要だからこそ、患者を大事にした医療を」といった改革的な意見を述べる会は、ほとんどありません。そこを変えたいという思いもあったと思います。

 私も個人ではJCPCに入っているのよ。「1・2の3で温泉に入る会」はまだ新しくて、そういう活動に必要な合意もできていないでしょ。会として入るのはまだ無理なものだから。

JCPC=「日本がん患者団体協議会」が正式名称。「癌と共に生きる会」「癌治療薬早期認可を求める会」「明日の医療を考える会」「がんナビゲーション市民ネットワーク」の4団体によって、昨年結成された

治療からほうり出されて一念発起

 あなたご自身はどんな経緯で、会にお入りになったの。原発はどこのがんですか。

橋本 90年に肝臓がんです。5年間再発がなければ手術は成功とのことでしたが、7年目の97年に、肋骨の間、胸壁に転移が見つかり、手術を受けました。そして、99年に定年退職した直後、肺への多発転移を告げられ、もう治療はできないから、余生を考えるように、と見放されたんです。

実はそれまで、私はがんとははっきり知らされていなかったんです。

 奥様しか聞いていなかったのね。

橋本 息子に「おとうさん、実はがんで長くないんやって」と突然言われたのが、99年の7月です。青天の霹靂でした。それまでおまかせ人生でやって来た人間ですが、はじめておまかせをやめ、一生懸命情報を集めました。その中で、平岩先生の本に出合ったんです。

その後まもなく、平岩先生に直接相談に行きましたが、最初は診療を断られました。ただ、息子に勧められていた国立がん研究センターに行く決心がついたのは、そのときに平岩先生にも勧められたからでした。

次に相談に行ったのは01年、がんセンターでも「これ以上治療できない」と言われたときでした。私自身は「自覚症状が出るまでは治療を模索したい」という意思があったので、平岩先生に相談しながら、必死で私を治療してくれる医療機関を探しました。

その結果、別な病院で肺の病巣を摘出し、平岩先生の抗がん剤治療を受けました。その後はリンパ球培養の養子免疫療法を受けて、現在は腫瘍マーカーのAFP(アルファフェトプロテイン)値も10台に下がって、経過は医者も驚くほど良好です。

 がんセンターでは、そういう治療はできなかったんですか?

橋本 シスプラチン(商品名ブリプラチン)と5-FU(一般名フルオロウラシル)による標準治療だけということでした。

それでもがんセンターで治療を始めたときは、肺に20~30個あったがんが、三つくらいに減ったんです。けれども、それが消えずに大きくなりかけて、これ以上強い薬は使えないと。

「癌と共に生きる会」ができたのはちょうどこのころで、先生はテレビに出演され、あまりにたくさんの患者が押しかけたことなどがあって、治療をすべてやめると言われたそうです。

その理由に、相談に来る患者に緊張感がない。「あなたたちは本当に現在の医療を変えたい、医療の矛盾を何とかしたい、と考えているのですか。ご自分の病状で、どうして今までの病院で診てもらうことができなくなったのか、お分かりなのでしょう? おまかせ治療はやめて、自分は何をすべきか考えてください。その意識のない人を診たくありません」ということなのです。それで、「平岩先生に治療をやめられては困る」というので生まれたのが、「癌と共に生きる会」なんです。

ただし、先生に診てもらいたいから、と入会する人を希望する人がいるので、平岩先生と会は無関係だということを表明しています。とにかく、医者と患者が対等であることが、求められているわけです。

 世間に多々ある医者の後援会みたいな患者会とは、性格が違うのね。そのためにも、平岩さんと形の上でも絶縁したと。

養子免疫療法=自分自身のリンパ球を体外で活性化・培養し、再び体内に戻して免疫力を強化する治療法

「医師と患者は対等」を実現するむずかしさ

 日本人の心の底には、医者に逆らったら損をするとか、ゴマをすらないといけないといった意識が今でもすごくあるのね。患者会の人はよく「医師と患者は対等だ」とおっしゃいますが、現実にはちっとも対等じゃない状態がまん延していて、そのことが患者会や医師をゆがめている。

けれども、医師と患者は平等であるという、このいちばん当たり前のことを原点にしないと、患者会は健全に育たないんですね。

橋本 1日でも長く生きられるようにしてもらえるのはありがたいし、感謝はするけれども、その気持ちと権利は違うということです。そこがむずかしいんです。

 本当にそう。たしかに、患者は医師に命といういちばん大事なものをあずけています。でも、それは銀行の貸金庫に大事な証書を預けているのと同じで、だから医師が偉いというものではない。

医師はその立場の仕事をしているのであって、患者と医師は対等だと思うんですよ。でも、そこを確立するのは、ものすごく大変です。

「1・2の3で温泉に入る会」は政治的活動ができる体制にはないけれども、どの病院とも医師とも、等間隔の距離で付き合うことだけは精一杯やれていると思うの。「医師と患者は対等」と、今後もきちんと言っていきたいし、その運動なら広めていけると思うんですよ。