鎌田實の「がんばらない&あきらめない」対談
医療法人誠愛会/原町中央産婦人科医院理事長・髙橋亨平さん VS 「がんばらない」の医師 鎌田實

撮影:板橋雄一
(2011年10月)

大腸がんを患いながら南相馬市で放射線と向きあい、診療を続ける産婦人科医師の執念
放射線との闘いはわが余命との競争です

髙橋亨平さん

たかはし りょうへい
1938年、台湾省台中県生まれ。福島県立医科大学卒。インターン終了後、同大学産婦人科学教室入局。第7回国際不妊学会にて開発したトランスヂューサーで「光導伝素子による卵管運動の測定法」を発表。1971年原町市立病院産婦人科部長兼福島県立医科大産婦人科非常勤講師。1979年外務省、西アフリカ医療調査団団長として12カ国の医療調査、診療にあたる。1980年原町市立病院退職、原町中央産婦人科病院開設後、現在に至る。これまで取り上げた分娩件数、約1万5000人

鎌田實さん

かまた みのる
1948年、東京に生まれる。1974年、東京医科歯科大学医学部卒業。長野県茅野市の諏訪中央病院院長を経て、現在諏訪中央病院名誉院長。がん末期患者、お年寄りへの24時間体制の訪問看護など、地域に密着した医療に取り組んできた。著書『がんばらない』『あきらめない』(共に集英社)がベストセラーに。近著に『がんに負けない、あきらめないコツ』『幸せさがし』(共に朝日新聞社)『鎌田實のしあわせ介護』(中央法規出版)『超ホスピタリティ』(PHP研究所)『旅、あきらめない』(講談社)等多数


東日本大震災で大津波と原発事故に直撃された、福島県南相馬市。そこに市民から「亨平先生」と親しみを込めて呼ばれる医師がいる。原町中央産婦人科医院院長の髙橋亨平さんだ。亨平先生は震災直後の阿鼻叫喚のなか、患者さん・市民のために、診療を続け、一旦閉院して避難したあとも、3日で再開に漕ぎ着けた。鎌田實さんが、現地で直撃インタビューした。

鎌田  「内部被曝検査装置を個人的に購入するという話を聞いたとき、鬼気迫るものがあるな、と」

髙橋  「私のがんのことより福島県をどうするか論争しました。それが救いだったかもしれません」

患者の妊婦さんに放射線対策を指導

語り合った髙橋さんと鎌田さん

福島の放射線対策について時間を忘れて語り合った髙橋さんと鎌田さん

鎌田  本誌8月号のこの対談に、福島第1原発にボランティアで手伝いに行こうと、60歳以上の人たちを450人以上組織した、いわゆる原発行動隊の幹部2人に出ていただきました。代表の方は悪性リンパ腫で、もう1人の方は大腸がんです。

髙橋  実は私も直腸がんで、肝臓の3分の1がメタ(転移の意)なんです。担当の医師も、転移部分が大きすぎて、切れないと言っています。肺にも転移があります。ですから、ものすごく身体がだるくて……。

鎌田  亨平先生の患者さんは妊婦さんですから、放射線対策なども指導しなければならず、いろいろ大変でしょうね。

髙橋  患者さんの家を放射線量を測りに訪問しています。家の外の空間線量や、1日16時間ぐらい生活している部屋の中の空間線量を測って、その数値から年間のマイクロシーベルトを算定し、日々の生活の仕方を指導していますが、線量が高い場合は、他の場所へ避難することもアドバイスしています。同時に、その部屋をなんとか直してやりたいということで、クロスのカーテンで部屋ごと囲ったらどうかと、建設会社と交渉したりしています。

鎌田  妊婦さんとそのお腹の中にいる胎児を心配して、そういうこともされているわけですね。基本的に南相馬市は福島県のなかでは線量が低いようですが、一部高い地域がありますね。

髙橋  モザイク状になっていますね。

鎌田  線量の高い地域のなかに、それでも南相馬を離れたくないという妊婦さんがいらっしゃるわけですね。

髙橋  そういうことです。ですから、私はいちばん最初に、こうした放射能のデータは、一括して全員同じレベルで治療、測定、経過観察を行ってはならない、と警鐘を鳴らしたのです。みんなそれぞれに個人的な事情があって、個々の線量も違いますから、個別に対応しないと、世界スタンダードは出ないよと。だから、最初からバッジか線量計を1人ひとりの住民に与えて、厳密なデータを出していこうということで、いろいろ関係方面にご協力をお願いしたわけです。

妊婦さんが暮らす家の放射線ブロックに注力

鎌田  それを受けて、私たちの認定NPO日本チェルノブイリ連帯基金(JCF)も募金活動をし、フィルムバッジによる測定がこの南相馬を中心に始まりましたよね。あのフィルムバッジは役立ちますか。

髙橋  いやぁ、立ちますねぇ。絶対、役に立ちます。ただ、線量の高い人をどう治療するかということを、今考えているところです。1つは、線量をブロックできる部屋にする。

鎌田  先生は、放射線室の壁に貼ってあるようなクロスを、線量の高い妊婦さんの部屋に貼ってあげたいと考えたわけですね。

髙橋  最初はそう思った。そして、建築会社の設計士と患者さんの家に行って、いろいろ線量を測ったところ、設計士が「壁に貼らなくても、カーテンで覆えば、ブロックできますよ」と提案してきました。それで今、カーテンの材質を徹底的に研究しているところです。

それとは別に、水のカーテンはどうだろうかとも思っています。というのは、私の家の庭に出て土の線量を測ると、1.5マイクロシーベルトですが、線量計をリンゲル液が入ったビニール袋にはさんで測ると、数値は4割ほど下がるんです。梱包用ビニールでプチプチしたやつに、空気の代わりに水を入れたものを、二重にしてカーテンにすれば、線量は3割ぐらいは落ちるのではないか。そうなればシメタものだと思っています。

鎌田  先生、すごい面白いアイデアですね(笑)。それがもし成功したら、「高橋亨平式放射線ブロックカーテン」として、大いに福島県民の役に立つ可能性がありますよ。

髙橋  それから、これは私の最大の提案ですが、南相馬市に放射線量ゼロの学校をつくりたい。全寮制で、生徒数は50~60人、吉田松陰の松下村塾みたいな塾式の学校です。小学校のころから物理も化学もやり、放射線についてもどんどん教える。それを文科省に特区として認めてほしい。放射線量ゼロの学校ですから、ふだんの生活でセシウムが多少上がったとしても、その学校に半年もいれば、かなり下がるようにする。そういう治療の役割も果たす学校を、小学校、中学校、1つずつつくりたいと思います。

一般の家族向けのそういう施設も考え、今、日本大学工学部の先生と交渉しています。日大工学部は郡山市でエコ住宅「ロハスの家」を造っています。ロハスの家は、電力会社からの電気は使わず、自然エネルギーだけで生活する家です。すでに1号、2号の2棟ができていますが、実用化には至っていません。私が、ロハスの家に放射線量ゼロの家を合体させないかと提案したら、その先生は面白いと興味を示してくれました。

死体検安の応援で見た遺体安置所の修羅場

鎌田  私の諏訪中央病院の医師・看護師たちが、南相馬市で医療のお手伝いをしたのは、震災直後から5月末まででしたが、チェルノブイリの医療支援活動を20年間行ってきたJCFの立場からすると、今後、この地域のお役に立てることがあるとすれば、「放射線と市民生活」という視点のなかにあるのではないかと思い、いろいろ考えていたわけです。

そんななかで、南相馬の人たち、とくに女性たちが「亨平先生」「亨平先生」と言って、先生に全幅の信頼を置いていることを実感していました。それで、南相馬に支援に入っていた医師仲間にも、「1度、原町中央産婦人科医院の高橋亨平先生を訪ね、ご挨拶したほうがいいよ」とアドバイスしていたわけです。

ところで、先生は大震災直後の悲惨な状況を、医師として目の当たりにされたわけですが、今振り返っていかがですか。

髙橋  地震による被害、津波による被害、そして、体育館にごろごろ並べられた死体の検安、それは悲惨なものでした。しかし、大震災の翌日、3月12日の午前中、情報がすべてストップしたときの悲惨さといったら、なかったね。どこにも、何にも、情報が通じないんですから。

鎌田  市民がいちばん危機に瀕したときに、政府は情報を遮断したんですね。

髙橋  多分、市内電話も止めたんだと思います。携帯電話が通じなくなった自衛隊もパニックに陥っていましたね。

鎌田  その時点で、自衛隊はすでに市の中心部に入ってきていたんですか。

髙橋  入ってきていました。そして、13日の日曜日になって、医師会長として死体検安の応援を頼まれ、安置所になっている体育館に行きました。3人の医師で検安しましたが、現場はすさまじい状況でしたよ。次々に遺体が運ばれてくるわけですが、白い防護服に身を固めた警察官が運んでくるのは、原発周辺地域で収容された遺体でしたね。遺体を洗い、持ち物をまとめ、身長を測り、身体の傷・骨折の状況を調べ、最後に私のところへ運ばれてくるわけです。

眼球が陥没して無くなっている人や、頭蓋骨陥没を起こしていた人がいました。不思議と骨折している人が多かったですよ。津波の波の上で起きていることより、波のなかですごいことが起きていたことが、一目瞭然でした。波の下で身体中が骨折するぐらいの衝撃を受けていたんですね。あれでは、いかに泳ぎが上手い人でもダメです。

原発爆発の最中に出産した子宮頸がん女性に感動

鎌田  私は3月25日に南相馬の遺体安置所に行かせていただきました。そのときには皆さんすでに棺桶に入っている状態でしたが、身元不明のまま棺桶に入っているかたが、たくさんいらっしゃいました。医師として死を見る経験を積んできた私でも、ちょっとつらくなるような状況でしたね。

髙橋  やはり死に方が普通と違うんですね。津波による溺死の場合は、口のなかに真っ黒い泥がいっぱい詰まっているんです。そしていろんなものにぶつかった衝撃で骨折していますし、いやぁ、苦しかったろうなと思いましたね。

鎌田  先生は震災直後、いっとき、この病院を閉じたんですか。

髙橋  閉じたというか、原発が最後に水素爆発した3月15日に、この地域の病院から何から、みんな避難したんです。やっている病院はウチだけでした。そこへ妊婦さんから「破水したらしい」という連絡が入った。それで、彼女が来るからということで、待っていたんです。彼女は浪江町の人だったんですが、避難しろというので隣の小高町の友人宅に避難した。すると今度は、小高町からも避難しろという指示が出た。

そこで彼女は小高町から私の病院に向かったのですが、道路は陥没しているし、通行止めの場所があったりして、ふだんなら10分で来れるところを、3時間かかって到着しました。診察すると、破水している。実は彼女は以前、子宮頸がんの手術をしているんです。「頸がんは固いから、すぐには産まれない。今夜はゆっくり休みなさい」と言ったんです。

鎌田  しかし、若くして子宮頸がんの手術をした女性の出産は、そう簡単ではないですよね。

髙橋  そうそう。だから私は彼女に、「これが最後のお産になるね」と伝えていました。それを聞いて、彼女は「この子は絶対に無事に産まなくてはならない」と思ったようです。ですから、3時間かけてウチの病院に辿り着き、灯りがついているのを見て喜んで、転がり込むようにして入院したわけです。ただ、経過を見ていて、次の日に手術をしようしたのですが、これが大変でした。

私も、ふだんなら、これくらいの帝王切開は躊躇なくやるんですが、町は死んで、誰もいないでしょ。真っ暗闇だし。職員たちに、「先生、血液は入りませんよ。緊急の薬剤もいっさい入らないですよ。酸素も入らないですよ」と言われました。どこに電話しても、誰も何も持ってきてくれないわけです。ひょっとして、とんでもないことになったら大変だと思い、結局、救急車を呼んで、大学病院にお願いしましたよ。

大学病院で無事出産したあと、彼女から礼状がきました。私はシェーグレン症候群といって、涙が出ない病気を持っていて、ここ10年ほど涙を流したことはなかったのですが、その礼状を読んだときは、ボロボロ、ボロボロ、こんなに涙が出るのかと思うほど、涙が出ました。人生であれほど感動したことはないです。