がん哲学「樋野に訊け」 3 今月の言葉「今日は今日の苦労で十分」

樋野興夫 順天堂大学医学部病理・腫瘍学講座教授
取材・文●常蔭純一
発行:2016年10月
更新:2016年9月

  

がんが見つかって空回りを続けている

Y・Gさん 会社経営/63歳男性/東京都

 半年前に人間ドックを受診したところ、ステージⅡ(II)の肺がんが見つかり、摘出手術を受けました。幸い、手術は成功し、現在は、もちろん以前ほどではないにせよ、元気に暮らしています。

ただ体のことはさておき、心がざわついて落ち着きません。がんになって人生が有限であることを考えるようになったからでしょうか。やらなくてはならないことが次々に脳裡に浮かんで離れないのです。

私は自分で小さな会社を経営しているのですが、もしもの場合の後継者を育てなくてはならない、また、そろそろ三十路に手が届こうという1人娘にもいい相手を見つけてやらなくてはならない、それにささやかながらも遺産の整理にも手をつけたほうがいいでしょう。さらに以前から考えていた自宅の改築も、今のうちにやっておいたほうがいいかもしれません。加えて家族や社員たちに自分の人生を知ってもらうために、自分史の執筆にも取りかかりたいとも思っています。

医師や家族は、今までずっと働きづくめだったのだから、このあたりでゆっくり休養すればいいというのですが、そんなことを考えていると、じりじりと焦燥感が募り、とても休む気にはなれません。自分でもそれがよくないことはわかっています。でも、やるべきことをやって先の見通しを立てることができれば、気持ちも落ち着くのではないかと思います。

もっとも現実は、気持ちばかりが先行しているせいか、成果はなかなか上がりません。時折、冷静になって振り返ると、私は毎日、から騒ぎを続けて、大切なエネルギーをいたずらに消耗しているようにも思えます。でも、だからといって、じっとしていることもできません。私自身もできれば、心配ごとを忘れてゆったりとした気持ちで毎日を送りたい。そのためにはどう日々の暮らしに向き合えばいいのでしょうか。

女性に依存しすぎている日本人男性

ひの おきお 1954年島根県生まれ。(財)癌研究会癌研究所病理部、米国アインシュタイン医科大学肝臓研究センター、米国フォクスチェースがんセンター、(財)癌研究会癌研究所実験病理部長を経て現職。2008年「がん哲学外来」を開設、全国に「がん哲学カフェ」を広める。著書に『見上げれば、必ずどこかに青空が』(ビジネス社)など多数

 私が主催するがん哲学外来にも、Y・Gさんと同じ悩みを持つ人が、毎回、何人も訪ねて来られます。これは真面目で仕事や趣味に懸命に取り組んできた日本人男性に共通する悩みといってもいいかもしれません。

私は日本人男性の生き方を象徴する言葉として、「看板かじり」という言葉をよく用います。これは会社内での課長や部長、あるいは社長といった役職、つまり看板に依存した生き方を指しています。そうした人たちは社内での役職があたかも自分自身であるかのように錯覚し、さらに上の看板を目指して、忙しく働き、人間関係を広げ続けてきています。忙しく動き続けることが善で、スケジュール帳に空白部分が生じると、根拠のない不安に襲われるような人生を送ってきているのです。

もっとも、そうした人生は看板によって成立しているもので、その人本来の生き方ではありません。実際、その人が定年になって、何の肩書きもない、素の一個人になると、それまで親しげにつき合っていた人も遠ざかっていく。当然、スケジュール帳も空白だらけになっていくものです。もっとも、その人自身は、忙しく動くことが善だという考えから脱却できないでいる。その一方で多くのサラリーマンの人たちは定年を迎えると、焦りや不安に苛(さいな)まれることになるのです。

日本人男性は夕暮れ時になると漠とした寂しさを覚えるといわれますが、大きな目で見ると、定年という節目が人生の夕暮れ時といっていいでしょう。Y・Gさんの場合は会社を経営されており、定年は存在しないかもしれません。しかし、年齢によって第一線から退く時期があることは変わりません。さらに、そこにがんという要素が加わるのだから、焦りや苛立ちが募るのも当然のことでしょう。

徹底的に悩めば、自ずと悩みは解消する

さて、ではどうすればそんな状態を脱却して、ゆったりとした気持ちで日々を送ることができるのか。まず必要なのは、Y・Gさんを苦しめている悩みの実体を検証する作業でしょう。

そこで私がお勧めしたいのが、1時間でいいから、たった1人で、真剣に思いつめてみるということです。Y・Gさんはこれまで、ひたすら行動を続けてこられたに違いありません。自らの生き方について、じっくりと考えたことはないでしょう。そこで1度、とことん、思い詰めてみるのです。

そうして1つの事柄について考えをめぐらしていると、ふと、それまでにない新たな考えが湧き上がってくるものです。そうすることでY・Gさんを焦燥に駆り立てている様々な事柄は、じっさいには、大した問題ではないことがわかってくるかもしれません。

例えばY・Gさんは事業の後継者を育てたいと思っていますが、後継者はその時になれば、自然と出現することが少なくありません。それにY・Gさんが気づかない間に、すでに実力のある社員が台頭していることも考えられるでしょう。また娘さんの件でも、本人には意中の人がいるということも十分に考えられることです。だいたいが娘さんの結婚というのは、本質的には娘さん自身の問題で、親がどうこういうことではないでしょう。つまり、Y・Gさんは考えても意味のない強迫観念に苛まれているわけです。

今は、焦りや苛立ちに苛まれ、Y・Gさん自身はそのことに思いが至らない。しかし、1つのことを真剣に考え続けると、目から鱗(うろこ)のように、ポロリと問題の実相が浮かび上がってくるのです。そして、そのことによって問題は解決されないまでも、Y・Gさんの悩みから解放されることになる。そこから、人生の夕暮れ時にふさわしい、ゆったりとした生き方を楽しむようにすればいいのです。

1つ、付け加えたいのは、そうした新たな生き方こそがY・Gさん本来の生き方だということです。これまでY・Gさんは会社の経営者という枠の中に自らを閉じ込めて、人生を送ってこられたことと思います。しかし、そろそろ看板を外して、もっと大きな外の世界に目を向けてみてはどうでしょうか。そこにはいろんな人間的な魅力を持った人もいれば、Y・Gさんの助けを待っている人もいることでしょう。そうした人たちと手を携えて新たな人生に向かってみるのです。そこにはこれまでY・Gさんの人生の糧となっていたHAPPYを上回る、より根源的な歓び=JOYが待っていることでしょう。

今日は今日の苦労だけで十分でしょう。答えの見えない明日の苦労から解放されることで新たな世界が見えてくる。まずは、徹底的に悩むことから始めていただきたいと思います。

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