がん哲学「樋野に訊け」 27 今月の言葉「大きな気持ちで臨めば、新たな人生を切り開くエネルギーになる」

樋野興夫 順天堂大学医学部病理・腫瘍学講座教授
取材・文●常蔭純一
(2018年10月)

末期がんの夫に裏切られていた

S・Mさん 主婦/67歳/東京都

 3年前、それまで40年以上、連れ添ってきた夫に大腸がんが見つかりました。手術と抗がん薬で回復したものの、1年前に肝臓、骨に転移が見つかり、現在はある病院でモルヒネを用いた緩和ケアを続けています。

長い間、苦楽を共にしてきた人だから最期まできちっと見守り続けたい。そう思って介護を続けてきたのですが、予想だにしない事態に見舞われました。モルヒネの影響で意識が混濁していたあるとき、夫は女性の名前を呼び続けることがあったのです。その女性は夫がまだ現役で会社の役員を務めていたときに、秘書として夫に仕えてくれていました。

しかし、会社を離れて何年も経つのに、なぜ、その女性の名を呼んでいるのか。不思議に思った私は、見舞いに訪ねて来た人たちに夫とその女性の関係について、尋ねることにしたのです。

すると、夫とその女性は愛人関係にあったらしいことが浮かび上がってきました。2人の関係は夫が病気で倒れるまで、20数年間も続いていたというのです。そのことを知って、当然、私は激しい衝撃に襲われました。私はひたすら夫を信じ、疑いのかけらも抱くことがなかったのです。

でも、事実を知った今は、夫に対する怒りや嫌悪、そして自分自身に対する憐みで何も考えることができない状態です。1つ言えるのは、これまでと同じように夫に接することはできないということ。正直にいうと、もう夫の顔を見るのもうんざりです。

でも、40年以上、共に暮らしてきたことも事実で、そのことを考えると、きちっと看取ってあげなくなくてはならないのか、とも思います。死を間近にした夫にどう対応すればいいのか、ご教示いただければ幸いです。

全力を尽くさないと後悔が残る

ひの おきお 1954年島根県生まれ。(財)癌研究会癌研究所病理部、米国アインシュタイン医科大学肝臓研究センター、米国フォクスチェースがんセンター、(財)癌研究会癌研究所実験病理部長を経て現職。2008年「がん哲学外来」を開設、全国に「がん哲学カフェ」を広める。著書に『見上げれば、必ずどこかに青空が』(ビジネス社)など多数

 夫婦二人三脚で、長い人生を共に歩んできたと思っていたのに、実は伴侶は別の異性と関係を持ち続けていた。今際の際(いまわのきわ)になって、夫の裏切りを知ったS・Mさんの怒り、やるせなさは察するに余りあります。ご主人の世話をしたくないのはもちろん、顔も見たくないという心情もよくわかります。

しかし、ここで一時の感情に身を任せて行動すると、後に禍根(かこん)を残す可能性も決して小さくありません。

というのは、私が主宰するがん哲学カフェにも、同じように病に倒れたご主人の不貞が明らかになったと、相談に訪れて来られた方が少なくありません。その中には、自分を裏切ったご主人に対する怒り、憎しみから、介護を放棄してしまった人もいます。そのことで一時的には、苦しむご主人を見て「いい気味よ」と、胸のつかえが下りるかもしれません。

しかし、長い目で見ると、それは決して自分のためになりません。どんな事情があるにせよ、長年、人生を共にしてきた伴侶を見捨てたという事実は変わらない。

そして、そのことにより、多くの人たちが「なぜ、あのとき、自分は全力を尽くさなかったのか」と、後悔に苛(さいな)まれているのです。

そして、その後悔に足を引っ張られる結果、同じ場所に留まり続け、新たな人生に踏み出せないでいる人も少なくないのです。そのことを考えると、一時的な感情に身を任せるのは、最悪の選択と考えるべきでしょう。

大きな気持ちで人を赦す

では、S・Mさんが将来、後悔することのない対応法とは、どのようなものなのか。そこには2つの選択肢があります。

まず1つは、ご主人の意識がはっきりしているときに、2人でじっくり話し合うという対応です。これは正論ともいうべき対応と言っていいでしょう。

こうした対応をとった結果、愛人だった人との関係について、そしてご主人のS・Mさんに対する気持ちについて、納得のいく答え、謝罪が得られるかもしれません。

もちろん、そうなれば、S・Mさんは怒りや憎しみなどのネガティブな感情から解放され、これまでと同じようにご主人と接していくことができるでしょう。

しかし、現実にはこの方法がうまくいくとは限りません。現在のご主人は、奥さんに対して十分に配慮できる状態とはとても思えません。と、すれば2人で話し合うことによって、奥さんの感情が逆なでされ、逆に怒りや憎しみがさらに増幅していく可能性も決して小さくはないのです。

そうなれば、とてもご主人の世話などできるはずもありません。後の世話は愛人だった女性に任せてしまうほかないでしょう。しかし、そうなれば、ご主人が亡くなった後で、「なぜ全力を尽くさなかったのか」と、自分は後悔に苛まれるに違いありません。

と、すれば後に残るのは、もう1つの選択肢ということになります。

これはご主人の裏切りなど、何もなかったことにして、これまでと同じようにご主人に接するという方法です。正論ではありませんが、ご主人やご子息への配慮を重視した方法です。もっとも現在のS・Mさんの気持ちを考えれば、とても困難な方法であるのも事実でしょう。

そこで、まずやっておきたいのが自分自身の振り返りです。

これまで自分は夫にどう接してきたか、夫の気持ちを十分に汲み取り続けて来たか。そうして、自らの人生を振り返ってみると、自分の至らなさも浮かび上がってくるでしょう。そうなると、ご主人が他の女性と関係を保ち続けてきた理由も少しは理解できるかもしれません。そして、これまでと全く同じ、とはいかないにせよ、誠意をもってご主人に相対することもできるのではないでしょうか。

もちろん、そのことでご主人の裏切りが許されるわけではありません。

しかし、一時的な感情に振り回されていては、状況を打開することはできません。ご主人のため、というよりも自分自身のために、大きな気持ちで介護に臨んではどうでしょう。それが、後になって新たな人生を切り開くうえでのエネルギーにもなってくれること請け合いです。