義眼についてもっと知ってほしい 小児がんで乳幼児のとき眼球摘出

取材・文●髙橋良典
写真提供●多田詩織
発行:2023年11月
更新:2023年11月

  

多田詩織さん まもりがめの会/きゃんでぃの会代表・臨床心理士/公認心理師

ただ しおり 1995年大阪府生まれ。1998年4月網膜芽細胞腫と診断され右目眼球摘出手術を受ける。2018年3月追手門学院大学心理学部卒業。2020年3月梅花女子大学大学院現代人間学研究科心理臨床学専攻修了後、福祉関係の施設で臨床心理士・公認心理師として働く。2017年義眼使用者の会「まもりがめの会」設立、2018年5月「きゃんでぃの会」設立。両団体の代表として活動している

2歳半のとき、小児がんで右目眼球摘出手術を受けた多田詩織さん。青春を謳歌できる時期に形成手術のため何年も眼帯を付けたままの生活を送ることを余儀なくされた。

他人にジロジロ見られることや治療に対する疲れ、自分の見た目について考えることに疲れてうつ状態になったことも……。しかし、これを契機に自ら義眼使用者の会を立ち上げる。現在、多田さんは2つの会を運営しながら臨床心理士・公認心理師として働いている。

小児がんで眼球摘出手術を受ける

現在、福祉の現場で臨床心理士・公認心理師(心理職で唯一の国家資格)として働く傍ら、義眼使用者の会「まもりがめの会」と小児がん・AYA世代のがん経験者の会「きゃんでぃの会」代表として活動している多田詩織さん。彼女は2歳半のときに網膜芽細胞腫と診断され、静岡県立こども病院で右眼球摘出手術を受けた。

網膜芽細胞腫とは網膜に発生する悪性腫瘍で、その95%が5歳までの乳幼児。新生児17,000人に1人が発症するといわれている。症状としては、黒目の中心にある瞳孔に入った光が腫瘍で反射して猫の目のように白く輝いて見える症状(白色瞳孔)があり、家族が気づいて受診する場合が多いという。

多田さんは右の眼球摘出手術を受け、その後1年間、病院生活を送ることを余儀なくされた。幼くして家族と離ればなれになり、入院生活を送ることになった心細さは想像に難くない。

「抗がん薬や放射線治療のため、ひとりでクリーンルームに入れられていたそのときの記憶がハッキリとあります。病室に隔離されていて、親とも十分に触れ合えないし、姉妹とも、同じ治療を受けているお友だちとも会えない。私ひとりだけ病室に取り残されているという寂しい記憶が残っています。病室の扉の向こうで親や姉妹たちがいる。クリーンルームのなかに私がいる、そんな状態でしか会うことができなくて、随分寂しい思いをした記憶は鮮明です。当時私が写っているどの写真を見ても、抗がん薬の副作用で髪の毛は抜け落ちてバンダナや帽子を常に被っている姿ばかりなのです」

静岡県立こども病院に入院中の多田さん。病院のイベントで

小学6年性の冬

幼い多田さんは1年間の入院生活を送った後、通院を続けることになった。

彼女が自分の病気のことをはっきりと知ったのは小学1年の頃だった。

「通院するなかで親と先生との会話を聞きながら、なんとなく自分の病気のことがわかるようになってきました。そして、周りの子と自分との違いがわかるようになってきました。親にそのことを話すと、『発見するのが少し遅かったので、右目を摘出することになったの。抗がん薬と放射線を使った治療をしたのよ』と話してくれました」

そして多田さんはこう話す。

「私の場合は義眼なので、瞼が思うように動かなかったり、瞬きもできないのです。ですから周りからみても違和感があって、どうしてもジロジロ見られたりすることが多く、そんな周りの目がすごく気になっていました」

「まもりがめの会」と「きゃんでぃの会」を設立する

中学3年生のとき1回目の形成手術後

多田さんはその後、成長するにつれ手術した右目のくぼみが大きくなってきたので、中学3年になって右目の形成治療を始めることに。このときから右目に眼帯を付けたままの生活が長く続くことになった。

2010年10月に京都の病院で上顎の粘膜を瞼に移植する手術を行ったのだが、うまくいかなかった。

「放射線治療の影響ではないかと医師から言われました」

そこで翌年2月、静岡県にある聖隷浜松病院で、太腿の細胞を瞼に移植する手術を行った。その後、3年間は定期的な通院と右目の細かい形成手術を受けるため、年に1度聖隷浜松病院に入院することになった。

常に右目に眼帯を付けていることもあって、普通に心配してくれる人もいれば好奇心で訊ねてくる人もいて、彼女にとってその煩わしさは日常茶飯事のことだった。

「そんなことが続くので、目立つことが苦手だった私はあまり気持ちよくはありませんでした。修学旅行やいろんなところに友だちと遊びに行っても、写真を撮るときに私だけ眼帯を付けたままの写真ばかりなので、そのことがずっと引っかかっていました。どうしてもありのままの姿で写真を撮りたいのに眼帯は外せない、常にそんなもやもやした気持ちが付きまとっていました」

2014年に大学に進学した後も、仮義眼を入れながら術後の腫れが引くのを待つため、眼帯を付けたままでの学生生活が続いた。

成人式で晴れ着姿の多田さん

そんな生活が続くなか、多田さんは2017年8月に義眼使用者の会「まもりがめの会」を立ち上げた。21歳、大学4年生のときだった。

多田さんはそれまで自分と同じ義眼の悩みを語り合える「義眼使用者の会」がないか探していたのだが、結局見つからなかった。もし自分が20歳になってもそのような会が見つからなかったら自分で設立しようと決めていたという。

「自分と同じ病気で義眼になったことについて、話し合える共通の仲間がいなかったことがいちばんの理由です。義眼の悩みは義眼でない人に話してもわかってもらえないし、すごい孤独感に襲われ、ものすごくしんどくなって本当にうつ状態になった時期がありました。だから外に仲間を探すしかないと思い立ったからです。私はブログをやっていたので、『集まりませんか』とブログで呼び掛けたのが最初です。その呼びかけに応えてくれた多くは、私と同じ病気の子を持つお父さん、お母さんたちでした」

多田さんの最初の目的とは多少違ったものの、義眼のことを理解してもらおうと交流会を年に2~3回、不定期に開催している。

また、保育士さんや学校の先生などの一般方向けに義眼の扱いについて知ってもらうための勉強会を開催してもいる。

「まもりがめの会」の勉強会を開催

さらに多田さんは翌年(2018年)5月、小児がん・AYA世代がん経験者の会「きゃんでぃの会」を設立する。

「小児がん経験者同士が交流できる会が地方ごとにあるのに、関西では現在活動をしている会がないとのことだったので立ち上げました」

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