「はらたいらに全部」―あなたがいたから乳がんも治せた 漫画家はらたいらを支え続けた糟糠の妻・原ちず子さん

取材・文:江口 敏
発行:2008年4月
更新:2018年10月

  
原ちず子さん

はら ちずこ
昭和19年、旧満州生まれ。高知県立山田高校卒業。高知生徒会連合で活動し、懲戒免職になった校長の復帰運動ではらたいらさんと知り合う。就職のために上京し、不遇時代のはらさんに再会し、物心両面で支えた。昭和39年に結婚。はらさんのアシスタント、マネージャーを兼務。平成5年に乳がんになり、左乳房全摘手術を受けるが、2週間で退院した。平成18年、肝硬変・肝臓がんで緊急入院したはらさんに付き添い、最期を看取った。

「クイズダービー」の人気者だった漫画家はらたいらさんが亡くなって1年が過ぎた。晩年は更年期障害に悩まされ、最期は肝硬変・肝臓がんにむしばまれていた。そのはらさんを不遇時代から支え続けたのが、同郷の妻・原ちず子さんだが、ちず子さん自身、乳がんで左乳房全摘手術を受けていたことは、あまり知られていない。ちず子さんは1人では何もできないはらさんを全身全霊で支えながら、がんを克服してきたのである。克服できたのは「主人のおかげ」だと言う。

忙しさのあまり放置した乳がん

原ちず子さんが乳がんを手術したのは、今から16年前、48歳のときだった。平成5年1月28日に手術し、2月11日には退院するという、ちず子さんに言わせれば「超特急」の入院生活であった。

手術は左乳房全摘という手術だった。リンパ節を11個も取られたために、左手がやや不自由ではあったが、手術の翌日から、食事は自分で取りにいって、自分で食べた。1日も早く退院しようと、左腕を吊っていた布を自らはずし、お手玉をやったり、体操をやったり、痛みをこらえながらリハビリに取り組んだ。ちず子さんは自分を「優等生の患者だった」と言う。

夫である漫画家のはらたいらさんの3食の世話をし、はらさんのアシスタント、マネージャーの仕事もこなしていたちず子さんは、出産以外に入院したことはなく、そのときも長く入院しているわけにはいかなかったのである。

乳がんの疑いを持ったのは、その半年前である。じつは、ちず子さんは42歳のとき1度、東京都の健康診断で、乳がんの検査をしたことがあった。マンモグラフィで乳房をはさまれてタテ・ヨコを測定したりした結果、悪性ではないと診断された。乳腺症の疑いは残り、診断医から「ときどき検査をしてください」と言われたが、ちず子さんは忙しさのあまり、そのまま放置した。

温存手術もできたが「全部取ってください」

そのうちに、以前は何かの拍子にぶつけると痛かった乳房が、ぶつけても痛くなくなった。ときどき風呂で触ってみても、痛みは消えていた。しかし、手のひらで触るとしこりが肉とともに動いていたのが、いつの間にか小豆大の石のように硬いしこりができ、手のひらで触っても動かなくなっていた。

浴室の鏡に映して、胸を反らして見ると、左乳房の左端にある小さな固まりを中心にして、皮膚がテントを張ったように状態になった。そのとき初めて、ちず子さんは「がんかな」と直感した。それが手術の半年前のことだった。

再び都の検査を受けると、「あなた、乳がんです」と言われ、都立の病院を紹介された。やっぱり、と思った。まったく不安はなかったと言えば嘘になるが、すでに覚悟はできており、「できたものはしょうがない」と腹をくくった。「私は主人より肝っ玉が据わっているんですよ」と、ちず子さんは笑う。

紹介された都立病院には行かず、知り合いが乳がんの手術をして完治した、H病院へ行った。精密検査を受けると、左乳房の左横、お椀の縁に当たる部分に、直径1.8センチほどのがんが見つかった。主治医のM先生は、「これなら患部だけをえぐり取って、シリコンを詰めれば、ポイントは残せます。ただ、あとで放射線治療を行う必要があります」と説明した。

ちず子さんは「いえ、私は1日も早く帰りたいんです。全部きれいにとってください。もし、転移するようなら、右も取ってください」と必死に頼み込んだ。「もう出産は終わっていますし、命さえあればいい、主人の世話ができればいいと思ったんです。乳房温存など考えもしませんでした」と、ちず子さんは振り返る。

妻の手術姿を見て失神したはらたいらさん

ちず子さんは乳がんと診断されるとすぐに、はらさんに告げた。入院するまで4~5日あったが、その間、はらさんは酒量が増え、ため息ばかりついていた。主治医から「手術は100パーセント成功しますよ」と言われていたけれども、はらさんは祈るような表情で、「死ぬなよ、死ぬなよ」と繰り返した。「怖かったんでしょうね」と、ちず子さんは言う。

はらさんは「至れり尽くせり」の人が側にいないと生活できない人であった。はらさんとちず子さんの間に2人の娘さんがおり、上の娘さんはすでに20歳を過ぎていたが、娘さんたちでは、はらさんの世話をすることはまだ無理だった。急きょ、故郷高知で暮らしていたはらさんのお母さんに上京してもらった。

手術当日、はらさんは仕事で病院に入るのが遅れた。はらさんがH病院にかけつけたのは、ちょうどちず子さんが手術室から出てきたときだった。点滴の管が何本も垂れ下がる状態で、ストレッチャーに乗せられて出てくるちず子さんを見た瞬間、はらさんの顔から血の気が引き、はらさんはその場に崩れ落ちた。その夜、ちず子さんは集中治療室で、はらさんはちず子さんの病室のベッドでリンゲルの点滴を射たれながら、1晩過ごすはめになった。

左乳房全摘手術は成功した。2週間後には退院し、その後1週間に1回、1カ月に2回ぐらいのペースで6カ月ほど経過観察のために病院に通った。転移も何もなく、経過は至極順調で、無罪放免となった。

放射線治療はまったく受けていない。点滴を射たれたとき、それが抗がん剤ではないかと疑った。髪の毛が抜けるのではと気になって、毛糸の帽子を持ち込んでいた。思い切って看護師に「抗がん剤ですか」と質問したら、「いいえ、栄養剤です。あなたは抗がん剤は必要ありません」と言われた。

診断書にはたしかに「悪性腫瘍、摘出手術」と書かれていたが、「本当にがんだったのかしら?」と思うほど経過は順調で、抗がん剤も放射線治療も経験することなく、今日に至っている。

「いちど骨折してH病院の整形外科にお世話になったとき、廊下でばったりM先生に会ったんです。『こんにちは』と挨拶すると、『あなた、あれから来ないねえ。元気? 良かったねぇ』と喜んでくださいました。
私は入院中はリハビリを一生懸命やり、短期間で退院に漕ぎつけた優等生でしたが、退院後は劣等生かも知れませんね。あれから1度も行ってないんですから」

そう言って微笑むちず子さんだが、乳がん手術後の経過が順調だったからと言って、決して順風満帆だったわけではない。

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