ドイツがん患者REPORT 91 ドイツレポートを振りかえって 後編 最終回

文●小西雄三
発行:2022年5月
更新:2022年5月

  

懲りずに夢を見ながら」ロックギタリストを夢みてドイツに渡った青年が生活に追われるうち大腸がんに‥

5年間の抗がん薬治療の終了と復活への期待

2012年に、腹膜に再発した腫瘍を切除しました。このときは切除後にゼローダ(一般名カペシタビン)の服用、5年間を目安に始めました。

2008年11月の発病からの3年半の間、術前化学放射線療法の副作用、ストーマを1年装着した後遺症で、腹痛や排便障害に悩まされていました。

僕のQOLは本当に低く、それでも「以前のようには戻らなくても、きっとそのうちよくなる」と信じ、これからの人生が好転するようにと願っていました。

2017年、ついに化学療法終了の日が来ました。それまでの8年間を冷静に振り返れば難しいとは思いましたが、奇跡の起こることを期待しました。でも心の底では「ダメかもしれない」と防衛線を張り、「ダメでもともと。それなら違う望みを、夢を作ればよい」と、軽く考えるように努めました。

それでも、日々体力が弱っていくことを自覚しないわけにはいきません。「ひとりでは無理でも、ちょっと手助けさえあれば」なんて情けない思いで、将来の予定変更も考えました。もちろん誰にも僕のその思いは伝わりはしません。当たり前です、誰にも言葉で伝えないのですから。

ゼローダを止めて半年、奇跡は起こりませんでした。とにかく、この体の状態が改善されないのなら、その中で楽しんで生きていこうと気を取り直しました。

犬のティト

保護犬のティトがドイツに来てもうすぐ7年になります。当時、娘は学生で、海外から保護された犬の里親に夏休みを利用して申し込んでいました。娘の性格からして、一度でも面倒を見たら手放せなくなると僕は反対でしたが、案の定、娘が引き取ると言ってきました。

犬を引き取るには、飼い主は長時間犬を放置しない条件(この団体では6時間以上)があり、娘はあと3年は学生。わが身の世話ですらふうふう言っている僕より、犬の引き取りに大賛成だった家内は、55歳の早期退職までの4年間は無理。結局、僕が平日は犬の世話をすることを条件に契約することに。

始めて会ったティトは、痩せこけて情けない目をした犬で、おどおどとして男性にはなつきません。しかし、生き残るための能力であるおねだりは天才的に上手です。

「うちにもやっと慣れてきたかな」と思っても、食べ物をもらうと一目散にテーブルの下や陰に隠れて食べ、普通に食べるまで1年以上かかりました。

犬用のおもちゃにも興味をほとんど示しません。ティトの玩具は自分の尻尾だけ。うれしいときもくるくると尻尾を追いかけて回ります。今でも、たまにやっています。

そういうティトが不憫で、娘の犬ですが僕が保護者になりティトが幸せをたくさん感じられるようにしてあげようと決めました。がりがりだったティトは、今では人間でいうところの中年太りになってきて、家内や娘はダイエットさせようとします。病的に太っているのでなければ、犬にとって生きている長さよりも、幸せな時間を持てることが大事で、ひもじい思いをさせても長生きさせようというのは人間のエゴだと思う。それは周りが僕に対してする要求と重なって見え、ときに苦痛に感じることがあるせいかもしれません。

映画のプロモーションバンドに参加

2019年、フランツィーが突然映画のプロモーションバンドを、僕らのアコースティックバンドにドラムを加えてやろうと言いだしました。彼女の夫は映画監督で、自主製作映画を作りましたが、その宣伝のためにです。

映画に協力した人たちの多くは、すぐれたコメディ映画だからではなく、これからの若い映画人の将来のため、そしてテーマの1つであるミュンヘン固有の問題や、失われつつあるバイエルン人気質を取り戻そうという思いに駆られたのだと思います。映画にはドイツで有名な俳優も出演していて、ほとんどがバイエルン語をメインに話すバイエルンの人たちでした。

映画の公開はバイエルン州だけで、宣伝もあまりできません。映画にはフランツィーのバンドが登場します。それで「映画館で上映前後に、映画の中のバンドが生演奏を行う」という企画が持ち上がりました。映画の効果的な宣伝になるのではとの考えからです。撮影時にベーシストの代役をした僕は、そのバンドでもベースを弾くことになりました。

ドイツの夏はあっという間に過ぎていき、初夏から始まった宣伝のバンド演奏も佳境を迎え、週に何度も演奏することになっていきました。ミュンヘン市内での演奏ならさほど問題はないのですが、プロモーションはバイエルン内だけとはいえ、往復何時間もかかるところが多くて、拘束時間が長い。つくづく、バイエルンは広いと感じさせられました。

わかってはいたが、限界を迎えバンドを脱退

年が明けた2020年もプロモーションは続いていましたが、拘束時間が12時間近くになることもあり、僕はすでに体力が限界でした。ライヴがある日は前日から食事を取らず、腸を空っぽにして、出発前に通常よりかなり多量のオピオイドを服用。もちろん、緊急時に備えて行動中にいつでも服用できるようにしていました。でも、そういうことを仲間に知られたくありません。体のことを理解してくれていても、実際はかなり無理をしている自分に、変な心配をされたくありません。ずっと一緒に暮らしている家内ですら、そういう僕の姿を見ても理解してもらえなかったのですから。

そのうちに、だんだん薬の効き目が薄れてきたことに気がつきました。

「何とか、一区切りつくところまでもってくれ!」と祈る思いで頑張りました。がんになったときフランツイーに助けられ、「いつか、恩返しをしたい」とずっと思っていて、やっと今その機会を得たのです。

しかし、思いと裏腹に体は限界で、プロデューサーがバンドのテコ入れを言い出したとき、いいチャンスだと脱退を告げました。フランツイーの成功の踏み台になれたらよかったのですが、その願いはかなえられませんでした。残念ながら、映画も音楽も成功には至っていません。

結果的には、恩を返せるほど、彼女の大きな助けにはなれませんでした。それでも、自己満足ですが自分にできることはやりました。〝自己満足できる〟というのが、生きている中ではかなりプライオリティが高いのだと、がんになってから悟りました。

ウィズ・コロナの2年間

コロナの流行で、ロックダウンやマスク着用義務など、何かと不便な生活を強いられるようになりましたが、僕にとってはあまり変化はありません。マスクは別として、感染症への注意はずっとやってきたことです。それどころか、バンド活動で疲労困憊していた僕にとって、買い物を含めた外出を極力避けるのは都合の良いこと。怠け者と言われない分、精神的にも楽でした。

自分では、半年もすれば過剰に摂取しすぎた薬の副作用をリセットできて、体調が回復すると思っていました。しかし、もう薬は効いてはくれませんし、落ちた体力も回復せず、気力もだんだんなくなってきました。

コロナ感染に注意をしていましたが、介護の仕事先で家内が同僚から感染し、僕も危険な環境で過ごしましたが、感染しませんでした。それはワクチン接種と共に、何度も書いてきたように普段から感染などに気をつけていたからだと思います。

僕が唯一できることは、迷惑をかけないように自立して生きていくことだけです。家内はワクチンに対して拒否感を強く持っています。介護職にもかかわらず、ワクチン接種をせずに仕事をする人もいます。個人主義のドイツでは、こういうことが普通に起こります。

ロックダウンやマスク着用の義務など、日本も強制的にすべきと思う人もいるでしょうが、ドイツでは強制しないと個人が他人を思いやる行動を期待できないからであって、ドイツだって強制せずに、個人の意思でやってくれればそれに越したことはありません。ワクチン接種もマスク着用も、僕にとっては他人に感染させないためのものです。「自分ひとりくらいしなくても」と、健康なときには思っていましたが、がんになってから考えを改めました。

この半年間の体調不良

その後、バンド活動からの疲労回復に努めましたが、芳しくありませんでした。冬の訪れと共に体力はより消耗し食欲もなくなって、去年のクリスマス頃には体重が50㎏を切ってしまいました。もともと細い体でしたが、まるでミイラのようになった自分の体を見ると、さすがに情けなく悲しい。

そんな姿を娘が心配して、検査を受けることに。定期検査以外の余分な検査は体の負担が増えるだけなので断りたかったのですが、家族のために受けることにしました。

その頃、家内から広い部屋に変わるよう言われました。部屋が広くなるとヒーターの効きが悪くなり、標準体重より20キロ以上少ない体では寒さがこたえます。最近は光熱費の高騰で、ヒーターの温度を上げると家内に文句を言われるので、布団をかぶってまるで冬眠状態です。指先がかじかんで、好きなギターすら弾けません。

体調不良で元気な時間が短くなり、それでも頭をぼけさせないためにと、ギターを弾く、絵を描くなどの手作業を続けていたのに、このように動かなくなるのは化学療法を始めたとき以来です。

有無を言わさず部屋の移動をさせられ不満でしたが、どうしようもありません。病気になってから不本意なことも受け入れることに慣れていますが、この体調不良を自分が原因とは思いたくないので、誰かのせいにしたいだけかもしれません。

ウクライナ侵攻について

この2カ月間ほど、ウクライナの惨状をニュースで目にしない日はありません。つらくても、目をそらしてはいけないと思い、反省を込めて見るようにしています。世界情勢にわりと無関心な日本でも詳細に伝えられていると聞きます。都合の悪いことや見たくないこと、聞きたくないことに目や耳をふさぎ、伝える側も口をつぐんできたことが要因で起こったことなのかもしれません。

思い出してみれば、東欧で、中東でそれ以上にひどいことが行われてきたのに、それを無関係と思うようにしてきたと思うと罪悪感で心が痛みます。

そういえば、自宅のセントラルヒーティングは、2年前にオイルから天然ガスに交換されました。エネルギー供給を代替燃料で行う。電力のバックアップや暖房は効率の良い天然ガスをロシアからパイプラインで引いてくる。それはドイツにもロシアにとっても、ウィンウィンの関係になると信じてきたことへのどんでん返し。

僕はドイツ人ではないし、選挙権もありません。しかし、この社会に住んでいるので、無関係ではありません。間接的ではあっても、ロシアが引き起こしたウクライナ侵攻の助けをしていたのかもと思うと、とても済まない気持ちになります。

もう、生涯こんなことは起こらないと思っていたのに、病気の後遺症で苦しむ僕よりも先に命を奪われていく元気な人たち。理不尽で無情な世界。

生きるって何だろう

そこに存在する、だからあなたであり僕であり、そして社会なんです。それが、生きるということ。がんになってからの人生でわかったことです。痛いこと苦しいことつらいこと悲しいこと、いろんなことがありますが、しかし、それはすべて通過点でゴールではありません。

最近めっきり弱くなってしまっている僕ですが、制作したい何かを、音楽でも絵画でも文章でも良いので、新たに見つけ楽しんで作り上げていくことに日々を費やしていきたい。それが僕の生きるということです。楽しむということを忘れないようにします。会いたい、話したい、触れたい人を探し、行動に出よう。可能かどうかは重要ではありません。しようという意思が大事で、生きるにつながっていきます。僕は存在し続けていきます。そういう僕を紹介する機会がまたあればと思っています。

患者の人も、その家族の人も、医療や介護に従事している人、これを読んでくださっているすべての方に感謝しています。どうもありがとうございました。

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