脳腫瘍を傍らにした元看護婦の心のカルテ

オルゴールがおわるまで 第1回

編集●「がんサポート」編集部
(2019年6月)

残間昭彦さん(スウェーデンログハウス株式会社代表取締役)

ざんま あきひこ 1962年8月新潟県新潟市生まれ。保険会社勤務の父の転勤に伴い転居を繰り返す幼年期を過ごし、11歳以降は埼玉の地にて少年期から青年期を過ごす。1981年埼玉県立大宮武蔵野高等学校普通科を卒業 。1983年東京デザイナー学院インテリアデザイン科を卒業後、室内装飾及び建築業関連の職につく。1987年、独立起業して一般建設請負業の会社を設立。1994年、スウェーデン産ログハウスの輸入及び国内販売を手がける。2001年、信州安曇野へ移住。著書に『白夜の風に漂う―ビジネスマンが歩いたスウェーデン―』『八月の交響曲―忘れてはいけないことを忘れるために―』がある
「オルゴールがおわるまで」
待望の書籍化決定
2020年7月発売 <幻冬舎刊>
題名:ありがとうをもういちど
副題:〜 去りゆく母の心象風景 〜
● 残間昭彦 著
● 単行本(四六版 / 300頁)
● 1,200円(税抜)

https://www.sweden-loghouse.com/event/5110.html

生と死を見つめることとは

いま日本では、自殺をする人の数が年間2万数千人を数えるという。慎みに欠ける物言いではあるけれど……、その1人ひとりの人生のうち、捨ててしまうはずのたった数時間を、もしも、もらうことが出来るなら、母はあと10年生きられる。でも、それは叶うべくもなく、生命を使い終えた母は、約束どおり天にその身を還していった。オルゴールがゆっくりと鳴り終わるように、自然と息を閉じて……。

末期の全身がんと診断された母にとり、なせる術(すべ)といえば時を待つことより他はなかった。その数カ月後、どうしてか、それらのがんは消えた。けれど、その奇跡は頭にまでは届かず、結局、脳腫瘍という悪魔の巣くうに任せた。そして、当初より、一切の延命治療を拒んでいた母が、或る日「怖い、怖いのよ……」と、私の胸に泣きすがった。

その宣告から以後、四季を過ごしつつ母が私へ伝えた多くの宝物(たからもの)は、まるで幼き日に聴いた子守唄のように優しく哀しいものであった。

生と死を見つめるということがどういうものであるのか、時の経過と症状の進行に伴い心と思考はどう移り変わるのか。その全てを、当人、家族、医療側、それぞれの目線で見つめたものを書き残さなければならない。

生涯の自慢の想い出に

世に云う「2・26事件」の騒動が起きた年の瀬、昭和11年12月13日。母、ヨシ子は、東京・世田谷に生を受けた。二姫三太郎の末っ子として皆に庇護され育ったヨシ子は、刑務官をしていた父親の転勤で、5歳から6歳の幼年期を戦時中の満州で暮らした。しかし、その時分のことはほとんど覚えていないらしく、ただ唯一、鮮烈に記憶しているのは、広い広い野原で、真っ白な子豚と転げ回って遊んでいたことと、その時の空の眩しさだけだと言う。きっと、楽しいことばかりを心に残しておきたいと願う女の子だったのだろう。

大戦直中(ただなか)、日本に戻った一家7人は、新潟の親戚を頼って疎開した。その頃のヨシ子は、とにかく毎日、歌ってばかりいる天真爛漫な少女であり、「ヨシ子は気が変になったんじゃないか……」と、家族たちは心配した。

そんな折のある日、当時巷(ちまた)で人気のあった「三つの歌」というラジオ番組の公開放送が、ヨシ子の街へやって来た。ヨシ子は真っ先に手を上げ、大きな声で2曲歌い、その賞金で母親にハンドバックを買ってあげた。しかし、驚きはそのことではない……。ゲストで来ていたデビューしたばかりの小鳩くるみ(童謡歌手)と、何とヨシ子がステージでデュエットしたのだ。その出来事が、ヨシ子にとって生涯の自慢たる想い出になったのは言うまでもない。

父と母の出会いの春

中学を出たヨシ子は、映画などの影響もあってか、看護婦になる道を真っ直ぐに選んだ。看護学校時代から病院に勤め始めた頃のアルバムの写真(セピア色)たちは、母にもまた、一生懸命だった青春があり、桜花の如く頰を染めた日もあったことを物語っている。

新潟市の繁華街「古町どおり」の食堂で、ライスカレーを間にはさんだ話のはずまない見合いの席が父と母の出会いであった。その日(昭和34年4月10日)、食堂の白黒テレビには、時の皇太子・浩人殿下と美智子様のご成婚式が報じられていた。ヨシ子、22歳の春のことである。

さて、ここで父のことを語らねばならない……。

父、昭一は8人兄弟の長男。本来は上に3人の兄がいたのだが、いずれも、戦争や病気で早逝してしまい、気がつけばいつの間にか長男になっていた。

終戦間際の昭和20年春、昭一は15才になったばかりで、その頃、戦局を危うくしていた軍部は、旧制中学四年の生徒へも志願兵を募るようになっていた。無論、志願ということは徴兵ではない。なのに、血気盛んな年頃の昭一は、「時が時なら、元服して戦さに行く齢だ……」などと勇ましいことを言い、親の心配をよそに憧れの予科練(海軍飛行予科・練習生)に入隊してしまったというツワモノだ。

そのあと戦争は、各地の空襲と広島・長崎への原爆を代償に終焉し、結局、戦地へ赴くことはなかったのだが、晩年、酒を呑みながら、厳しい訓練の様子などを話してくれたことがあった。

♪ 若い血潮の予科練の七つボタンは桜に錨……〈若鷲の歌〉と、歌い讃えたあの歌は、当時の若者へのペテンであった。そんな、忠君愛国と踊らされた多くの若者の中に、詰襟(つめえり)のお仕着せをまとった父もいた。