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不安や心配事は自分が作り出したもの いつでも自分に戻れるルーティンを見つけて落ち着くことから始めよう

監修●玉置妙憂 僧侶/看護師
取材・文●菊池亜希子
(2019年11月)

たまおき みょうゆう 「スピリチュアルケアとは、患者さんが何かを見つけようとしているプロセスを全力で邪魔しないようにすることです」と語る玉置妙憂さん 大慈学苑

看護師として医療現場で忙しい日々を送っていた玉置妙憂さんは、2012年、末期がんの夫を自宅で看取った。延命治療を拒んだ夫が強く望んだ自宅での「自然死」。樹木が少しずつ枯れて最後は土に戻るような〝美しい死〟を目の当たりにし、誘(いざな)われるように僧侶の道を志したという。

1年間の厳しい修行を経て僧侶となり、現在は看護師として医療現場に立つ一方、終末期の患者の元へ通い、スピリチュアルケアを行っている。看護師と僧侶という2つの立ち位置から命を見つめる玉置さんに、がん闘病中の心に何が起こるのか、その実情と処し方を伺った。

がんと告知されたとき、心の中に何が起こるのか?

突然「がん」と宣告されたとき、目の前の風景が一変したように感じなかっただろうか。湧き上がる不安と恐怖を置き去りにされたまま、治療の話だけが先へ進み、医師の言葉が遠くに聞こえる感覚。頭では理解しようとするけれど、心がついていかない。千々に乱れた心に、苦しんだ経験はなかっただろうか。

私たちは皆、無意識に先のことを計画して生きています。今日と同じように明日が来て、来年はこうありたいと願い、10年後の自分や家族のことを漠然と考えていたりします。そこに紆余曲折あろうとも、自分の姿がないことは想像していない。それが「がん」と告知された瞬間、達磨(だるま)落としのように一瞬で崩されるのだと思います。

現在は医療が進んで、決して「がん=死」ではありません。ところが「がん」という言葉の持つ強さもあるのでしょうか、他の疾患と違って、今もなぜか死を意識させるようです。それは早期発見でもあまり変わらず、「5年生存率90%」という状況でさえ、「もし10%に入ってしまったら?」「5年後は大丈夫でも10年後は?」と次から次へと不安が湧き上がってきます。

これは「どうなるかわからない不安」とも言えます。私たち人間は、どうなるかわからないことが非常に苦手で、わからないままに置いておくことができないのです。だから、先の先まで治療法を調べて一喜一憂したり、新たに保険に入ったりと手を尽くすのですが、結局どうなるかわからないことに変わりはなく、不安は膨らむばかり……。

本当はがん患者に限らず、皆、どうなるかなんて全くわからないのです。世の中は、わからないことだらけ。天災や交通事故、偶然乗った電車が脱線してしまうこともあるし、食べたものに当たるかもしれない。ただ、健康なときは、誰しもこの先どうなるかわからないことに気づいていません。それを「スピリチュアルの箱が開いていない」と私は表現しますが、普段、人は皆「どうなるかわからない不安」をすべて「スピリチュアルの箱」の中に仕舞い込んでいます。ところが、がんと知った瞬間、その蓋(ふた)がパカッと開いて、中にあるものをまざまざと目の当たりにするのです(図1)。

我が子のそばにいてやれないということ

幼いお子さんを持つお母さんとなると、押し寄せる不安は計り知れません。「この子の面倒を見てやれなくなるかもしれない」と考えてパニックを起こすのも当然です。ただ、誤解を恐れず、敢えて言わせていただきます。

「この子は私がいないと生きていけないと思っているのは、あなただけですよ」と。

この子の面倒を見るのは母である自分の役割だと思っているのは、あなた自身。それは大切なことですが、もしもどうしてもその役割が果たせなくなったら、その子が生きていけなくなる、というのは真実ではありません。もしいつかあなたが亡くなったとして、お子さんは生きていけないと本当に思いますか? 生きていけます。

もちろんできることならずっとそばにいてやりたい。それができなくなるかもしれないと想像するだけで苦しくてつらい。でも、そのときこそ我が子を信じてあげてほしいのです。「例え私がいなくなっても、この子はしっかり生きていける」と。

私は僧侶になる修行のために1年間、山に籠(こも)りました。その間、外との連絡は一切取れず、家族といえども、もし修行中に電話がかかってきてそれに出たら、その時点で修行は中断と定められていました。当時、下の息子は小学2年生。母に預けていたとはいえ心配でたまりませんでした。高熱を出しているのではないか、事故に遭(あ)ってはいないか、寂しがっているんじゃないか、と。ついには、幼い子を置いて山に来てしまった私は、母親として、人間として間違っている……と思うに至り、何日も七転八倒しました。朝起きると今日こそ山を下りよう、夜になると明日は家へ帰ろう、の繰り返し。

そして、あるとき気づいたのです。「私が感じている不安はすべて、私自身が勝手に作り出しているものだ」ということに。そこに事実は何もない。ただ、自ら作り出した不安に脅(おび)え、押し潰されていました。そう気づいてから、少しずつ心が落ち着いていったことを覚えています。

少し仏教の話になりますが、私が心配ごとを作り出しては苦しんでいたとき、師僧に「そういうときは不動明王(ふどうみょうおう)の真言(しんごん)を唱えて、童子(どうじ)を子どものところに飛ばしてもらいなさい」という言葉をいただきました。

大日如来(だいにちにょらい)の化身である不動明王は36人の童子を持っていて、その童子1人ひとりがそれぞれ数千人の眷属(けんぞく:部下)を従えています。不動明王の真言を唱えて童子にお願いすれば、童子がたくさんの眷属と一緒に子どものところへ飛んでいって守ってくれると教わった私は、毎日、必死で祈りました。そして、私がそばにいなくても、童子と眷属たちに守られて健やかに暮らしている子どもたちを想像し、実際にそう信じていました。

童子の話はさておき、人間の思いというものは、実はすごい力を持っているのです。祈りの力が、がんの回復に関与していることは、米国では研究結果も出ています。子どもへの愛情となると、その力が絶大なのは言うまでもありません。がんになって、子どものそばにいてやれない、あれもできない、これもできない、と思い悩むこともあるでしょう。でも、どんな状況でも、念を送ることはできます。祈りでも思いでもいい。子どものそばにいられないなら、子どもが幸せに生きていけるように、全宇宙にでも、仏さまにでも、神様にでも、ご先祖さまにでも何でもいいので、念を送り続けてください。それは絶対に無力ではありません。お子さんが今後の人生でいい師に巡り合うことかもしれないし、良い友人に恵まれることかもしれない。何かの形で必ずお子さんを守ってくれます。

いつでも自分の軸に戻れるアクセスポイント

大切なのは、自分で勝手に作り出した不安や心配事に惑わされないこと。そうした不安はすべて自ら作り出しているのですから。こうなったらどうしよう、ではなく、事実だけをそのまま見てください。5年生存率60%というとき、60%に入るのか、40%に入るかは医師にも誰にもわからない。わからないことを思い悩むのではなく、「わからない」まま認めていけるようになりたいと思うのです。

そのためには、まず落ち着くことです。落ち着くとは、自分の軸に戻ること。軸は何でもいいのです。亡くなったおばあちゃん、可愛がっていたペット、大好きな本の一節、好きな場所など、自分の中にしっかり存在していて、揺るがないもの。それをイメージして、心の真ん中に持ってきます。検査結果や医師の話、いくつもの不安が押し寄せて苦しいときは、心が千々に乱れている状態。それをパニックと言うのかもしれません。そんなときこそ、軸に戻って落ち着き、事実は事実として見て、自分で作り出した不安や心配事は心から1つずつ拭い去っていきましょう。

軸に戻るにはコツがあります。ラグビーの五郎丸選手がキックの前にするポーズや、野球のイチロー選手がバッターボックスに入る前に行うルーティン、あれはすべて自分の軸に戻るためのアクセスポイント。決まった動作は、私たちを軸に戻してくれる入口になるのです。私たち僧侶も同じで、毎朝お経を読むことで軸に戻ります。毎日同じことをすることで、心の真ん中に軸を持ってくる練習をしています。

頭で考えるのではなく、軸に戻るアクセスポイントを見つけてみてください。コーヒー1杯飲む、ストレッチをする、庭の草木と触れ合う、テラスで本を読む、何でもいいのです。それをすることで自分の軸が心の真ん中に戻るきっかけとなる決まった動作を探しましょう。これは訓練です。最初からうまくいくわけではありません。これだというアクセスポイントを決めたら、毎日練習を重ねることが大切。いつしか、その動作によって上手に自分の軸に戻れるようになっていきます。

ちなみに、アクセスポイントは何でもいいけれど、日常生活の中で気軽にできること、それをすると心地良いと感じることがいいですね。いくら心地良いといっても「ハワイに行く」というのはアクセスポイントにはなりません。いつでも、どこでもできること、もっと言うと、どんなに落ち込んでいてもできるようなことがいいと思います。