渡辺亨チームが医療サポートする:炎症性乳がん編
ハーセプチンとナベルビンの併用療法で、乳房の腫れと赤みが消えた
大橋真由美さんの経過 | |
2004年 10月初旬 | 左乳首付近に小さな発赤を発見。数日中に左乳房全体が腫れる |
10月13日 | 産婦人科で乳腺炎と診断。抗生物質処方 |
10月18日 | 乳腺外科で炎症性乳がんの疑いを指摘 |
10月21日 | 炎症性乳がんと確定診断 |
10月28日 | 松川オンコロジーセンターで薬物治療を開始 |
2005年 4月 | 乳房の腫れと赤みが消滅 |
炎症性乳がんと診断された大橋真由美さん(38歳)は、乳腺外科医の紹介で腫瘍内科の松川オンコロジーセンターで治療を受けることになった。
分子標的薬のハーセプチンにナベルビンという抗がん剤を併用した治療が始まる。
治療効果は顕著に表れ、腫れと赤みが薄れていった乳房は、3カ月でほぼ元の姿になった。
しかし、主治医から炎症性乳がんが「全身病」であることを告げられており、まだまだ安心できる状態ではなかった。
治療は全身的な抗がん剤治療が中心
2004年10月22日の朝8時半、2人の子どもをそれぞれ小学校と幼稚園に送り出すとすぐに、大橋真由美さんは夫の武夫さんが運転する車に乗り込む。前日乳腺外科の神川医師から「炎症性乳がん」との確定診断の連絡を受けており、同医師から紹介された同じ市内にある腫瘍内科の松川オンコロジーセンターを目指した。
すでに神川医師が、玉岡院長に連絡をしてくれており、受付で問診票に記入するとまもなく診察室に呼ばれる。武夫さんもあとに続いた。
「どうも初めまして。大橋さんですね。玉岡です」 玉岡院長は、ハリのある声で迎えた。50歳前後と思われるが、七三に分けた黒い髪も若々しい。
「どうかよろしくお願いいたします」
真由美さんとともに、武夫さんも頭を下げた。早速院長はこう話す。
「神川先生から大橋さんの資料が届いています。ご病状はだいたい私のほうも把握できていると思いますが、患部だけ拝見しましょう」
真由美さんは「はい」と返事し、玉岡院長の前で前開きのジャージのファスナーを下ろすと赤く腫れ上がった左乳房が現れた。元の2倍近くもある胸はとてもブラジャーを着けられるような状態ではなく、この日は当然診察があると考え、素肌の上にこのジャージだけ羽織っていたのである。真由美さんがそのジャージも脱ぐと、すでに背中のほうまで真っ赤になっている。院長は乳房だけでなく、わきの下、鎖骨の上下のリンパ節、そして頸の周囲まで丹念に触診した。引き続き聴診器を胸の何カ所か���当てて、ゆっくりと心音、呼吸音を確認した。
「はい、いいですよ。服を着てください」
こう言いながらカルテに所見を記載する。
「神川先生からも、説明をお聞きになっていると思いますが、この段階ではすでに手術は意味がありません。治療は抗がん剤療法が主体になります。ですから抗がん剤が有効であれば、十分改善する可能性はあります。そのあとで局所をコントロールするために放射線照射を行うことになるでしょう」
前夜は松川オンコロジーセンターのホームページなどで、炎症性乳がんや抗がん剤について一生懸命勉強した真由美さんだが、自分がいちばん聞きたいことがどうしてもわからなかった。思い詰めたように、口を聞く。
「先生、私は助かるのでしょうか? どの程度助かる見込みがあるのでしょうか? 子どももまだ小さいので、私は今死ぬわけにはいかないのです。もし抗がん剤で命を縮めるようなことになるのでしたら、今は治療を受けないで、子どものためにできるだけのことをしておいてやりたいのですが……」
玉岡医師は少々苦しそうな表情を浮かべ、しばらく黙っていた。が、その間に頭の中で考えがまとまってきたかのようだ。ゆっくり口を開く。
「大橋さんの乳がん細胞は、ホルモン剤が効かないタイプで、以前だったらとくに予後の悪いがんでした。ところが、5年前からハーセプチン(一般名トラスツズマブ)というお薬が使えるようになって、こうした患者さんにも希望を持っていただけるようになったのです。神川先生のところで受けていただいたパンチバイオプシーの検査の結果、大橋さんのがん細胞にはHER2というタンパクが多いことがわかっています(*1HER2タンパク)。これはハーセプチンが有効である可能性を示すものです。ハーセプチンが効くとなれば、病気の進行を抑えられ、かなり症状も改善する見込みが出てきます。そうなれば長く生きていただくことも可能になるでしょう。少なくとも治療をしないよりはるかによい経過をたどることは間違いないと思います」
一般名 | トラスツズマブ |
---|---|
カテゴリー | 分子標的薬 |
世界承認 | 米国1998年9月 |
日本承認 | 2001年4月 |
開発元 | 米国ジェネンテック社 |
製造会社 | 中外製薬 |
対象患者 | HER2過剰発現が確認された転移性乳がん |
用法・用量 | W初回4mg/kg、2回目以降2mg/kgを生理食塩水250mlに溶かして30~60分かけて点滴静注 |
有効率 | 単剤で15~24% |
薬価 | 150mg 80,042円 |
副作用 | 心不全など、重い心障害、肺障害の人は要注意。発熱、悪寒、無力症、疼痛など |
禁忌 | ハーセプチンに過敏症のある患者 |
ハーセプチン+ナベルビン療法で4サイクル

タキソールとナベルビン
真由美さんの乳がんのための薬物治療は、ハーセプチンを中心に行われることになった。最初の治療ではナベルビン(一般名酒石酸ビノレルビン(*2))という抗がん剤と併用する。この治療が終了したら、続いてタキソール(一般名パクリタキセル)(*3)という抗がん剤と併用した治療を行うことになっている。どちらの併用療法も、お互いの薬剤の相乗効果が認められていて、どちらか単独で使用するよりもがんを抑える力が強いとされる。
ハーセプチン+ナベルビンの組み合わせ(*4)も、ハーセプチン+タキソールも、それぞれ3週間を1サイクルとして、4サイクルの治療を行う。終了までほぼ半年がかりの長丁場だ。玉岡院長は話す。
「乳がんは、同じような種類の同じような状態のものであっても、患者さんによって薬物治療の効果はまちまちで、必ず効果が表れるとは限らないのです。そこでがんに対する作用の仕組みが異なる2種類の併用療法をメニューに入れて、より有効性が高くなるように期待しようというわけです。
大橋さんは全身状態も臓器機能も全く問題ないので、安全に治療を続けることができるでしょう(*5患者の全身状態)」
真由美さんは玉岡院長の説明を納得し、ハーセプチンの併用療法による治療を受けることに決めた。毎週自宅からバスを利用して通院するつもりである。

こうして10月28日、初めての点滴治療の日を迎えた。最初はハーセプチンの点滴が行われる。真由美さんが治療台に横になると、看護師はいかにも手馴れた様子で血管を探し出し針を刺した。
点滴が始まると、10分おきくらいに、「具合は悪くなりませんか?」と聞きに来る。真由美さんにはほとんど苦しむような自覚症状はなかった(*6ハーセプチン+ナベルビン療法の副作用)。
「なんとか薬が効きますように。がんが治りますように」
真由美さんは、点滴が始まるとすぐにこう祈り続けたのである。そして、30分くらい経った頃、看護師が中くらいの大きさの注射器を持って現れる。「これがナベルビンというお薬です。痛いとかチクチクすることがあったらおっしゃってくださいね」
看護師はそう話すと、それを点滴の側管に1分間くらいのうちに注入した。が、とくに痛みもなく、気持ちが悪くなることもなく、それから30分ほどで、この日の点滴は意外とあっさり終了となる。
間違いなく良い方向に向かっています
12月17日、ハーセプチン+ナベルビン療法の3サイクル目が終わった。真由美さんは約2カ月の間、青く透けて見えるはずの静脈が、すこし黒ずんで見えるようになったほかは、治療の副作用をあまり感じることもなかった。むしろ乳房の腫れを発見していた頃続いていたような疲れやすさや倦怠感もこのところ薄れてきたような気がする。家事や育児に夢中になっていると、自分の病気のことを忘れている日さえある。そして、入浴のたびに乳房の腫れが引いて来ており、色も薄くなっているのを知っていた。
診察室で、玉岡院長は穏やかな笑顔を浮かべながら真由美さんに話す。
「ご自分でもおわかりと思いますが、たいへんよくなりましたね。血液検査で腫瘍マーカー(*7)も低下しています。CEAというマーカーは50もあったのが5に、CA15-3は45あったのが16まで落ちています。間違いなく良い方向に向かっていますね」
真由美さんは、「本当によくなっているんだ」と感じることができ、目が潤んでくるのを抑えることができない。
「本当に先生にいいお薬を薦めていただいたおかげだと思います。髪の毛も抜けるかと思っていたのに大丈夫でした。とても助かりました。このまま続けばいいのですが……」
「そうですね。かなり展望が開けてきました。ただこのあと始まるタキソールを使った治療では、髪の毛はほとんど確実に抜けます。今までより副作用は少し強いかもしれませんね。でも、大丈夫ですよ」
こうして、2005年1月初めにはハーセプチン+ナベルビン療法が終了し、ハーセプチン+タキソールの併用治療が始まる(*8ハーセプチン+タキソール併用療法の投与法)。その中で、玉岡院長の言ったとおり、タキソールの副作用(*9)が現れ、脱毛のため髪がチョボチョボとしか残らない状態になり、神経障害のためにボタンをはめるのにてこずるなどの支障が出た。真由美さんはかつらを用意したり、時々実家の母に家事の応援に来てもらったりしながらこの時期を乗り切っている。
4月5日に最後の点滴を終えたあと、玉岡院長はにこやかに、「予想以上にうまく進みましたね」と話している。真由美さんは、その帰りに「今日は久しぶりに子どもたちと一緒にお風呂に入ろうかな」と考えていた。しばらくの間、「子どもたちがおっぱいを見たら怖がるに違いない」と思って一緒に入浴することはなかったが、その乳房はすっかり元の形と色を取り戻していたのだ。

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