渡辺亨チームが医療サポートする:乳がん脳転移編

取材・文:林義人
発行:2006年9月
更新:2019年7月

再発しても大丈夫。「ハーセプチン+ナベルビン」療法の力

 神田美津子さんの経過
2004年
10月
右乳房外側にステージ2Aの乳がん発見
11月15日 乳房温存療法により部分切除、腋窩リンパ節郭清
29日 CMF療法開始
2005年
3月
鎖骨上リンパ節転移を発見
4月1日 ハーセプチン治療開始
10月 肝転移発見、タキソールを追加治療
2006年
4月11日
脳転移発見
4月17日 全脳照射と定位照射を組み合わせた放射線治療開始
5月24日 ハーセプチン単独投与を再開
9月24日 肺転移を発見。ナベルビンの追加治療
10月15日 脳転移も肺転移も消滅

2A期乳がんが再発し、脳転移を来たした主婦・神田美津子さん(41歳)は、放射線治療を受けた結果、頭痛などの症状は消滅した。

しかし、がんはすでに全身に転移しており、なおも薬物治療を必要としている。

ハーセプチンにタキソールという最先端の薬物治療の向こうにどんな手があるのだろうか。

ハーセプチンは脳転移のリスクを高める?

2006年5月23日、神田美津子さんは夫の潔さんに付き添われて県立がんセンターの腫瘍内科を訪れた。ちょうど2週間前に、放射線科で乳がんの脳転移へのガンマナイフ治療を受けており、この日は今後の治療方針について沢渡肇医師から説明を受けることになっている。

「こんにちは。ガンマナイフはちょっときつかったでしょう?」

診察室で待っていた沢渡医師は、美津子さんを見るとまずこのように聞いた。

「ええ、それはそれは。あの鉄かぶとのようなものをつけられてネジで締められるのが、痛くて、痛くて……」

「本当に大変でしたね。それでいかがですか、お具合は?」

沢渡医師はいつも患者の痛みをよく理解してくれているようで、美津子さんは会っただけでもちょっとほっとする。

「おかげさまで、あんなにひどかった頭痛が治まってきました。ずっと続いてくれるといいのですが……」

「ほんとうにそうですね。そのためにも、これからの抗がん剤治療が大切です。脳転移の放射線治療が入ってバタバタして、薬物治療をどうするのかについてゆっくりご説明する機会がありませんでしたから」

「でも、私に効く薬はまだあるのでしょうか? ハーセプチンでいったんはリンパ節と肺の転移が消えたと思ったら、肝臓転移でした。そこでタキソールを追加していただいて肝転移が治ったと思ったら、今度は脳転移。これはもう薬が効かなくなったということなのではないでしょうか? これ以上私に有効なお薬がまだあるのでしょうか?」

美津子さんはすがるような気持ちで尋ねた。

「がんがハーセプチンやタキソールに耐性を持って脳転移が出たのではないかとお考えなのですね?(*1薬物耐性)。そうではありません。脳転移と脳以外の部分への転移とは分けて考える必要があります。じつは血管が脳に入るところには血液―脳関門*2)というバリアがあって、抗がん剤は脳転移には届きにくいのです。ですから脳転移は、がんがハーセプチンやタキソールの耐性を持ったから出てきたわけではありません。神田さんの脳転移については、ガンマナイフ+全脳照射という治療を行うことができたので、1年後でも9割までコントロールができると考えられます。一方、脳以外の部分については、今のところ転移が見られないのですから、まだハーセプチンが有効だという可能性が高いと考えられるわけです。 そこで、これからまずハーセプチン単独で治療をしていきたいと考えています」

すると、ここで潔さんが、「それについて、ちょっとお聞きしたかったのですが」と、口を挟んだ

「じつはインターネットで調べたら出てきた話ですが、ハーセプチンで治療をすると脳転移の危険性が高まるという意見もあるそうですね。それを知って私も妻が脳転移を来たした一因はハーセプチンではないか、というふうに考えました。本当にこれからもハーセプチンで大丈夫なのでしょうか?」

沢渡医師はきっぱりとした口調になる。「ハーセプチンが脳転移のリスクを高めるのではないかという考え方は、臨床試験の結果完全に否定されました。確かにハーセプチンがよく効いている状態なのに、突然脳転移が診断されるケースはしばしば見つかります。しかし、この状況をとらえてハーセプチンで脳転移が起こりやすくなるという理屈は成り立ちません。そもそも血液―脳関門でハーセプチンが脳に届かないのですから、脳がハーセプチンの“聖域”となり、相対的に他の部位の病変がハーセプチンがコントロールされる結果、脳転移が目立つようになったものと考えられます」

「なるほど、ご説明はよくわかりました」

潔さんも納得できた。

体にきつくないハーセプチン単剤治療

[ハーセプチン単独療法の効果]
図:ハーセプチン単独療法の効果

5月24日から美津子さんの新しい薬物治療が始まった。とはいえ、毎週1回県立がんセンターへハーセプチンの点滴を受けに行くだけの治療だ。そして、1カ月に1回はCTやMRI検査、血液検査など受けることになっている。

そんななかで、6月下旬のMRI検査では、すでに脳の腫瘍がガンマナイフを行う前の半分くらいに小さくなっていることを確認できた。その日、美津子さんは夕食を終えた潔さんにふとこんなことをもらす。

「脳転移といわれて、『もうダメか』という気もしたけど、治療を終わってみれば『あんなものか』という感じですもの。おかげでつい退屈になってしまうほど、最近調子がよくなってきたの」

そのことはそばにいる潔さんにも十分感じられた。美津子さんは食欲も増しているようであり、ガンマナイフを受けた頃より体重も3キロほど回復している。

「タキソールが入らないと、あまり副作用もないようだな」

「ハーセプチンだけならほとんどきつくないわ(*3ハーセプチンの副作用)。でも放射線のおかげで髪の毛がまた抜け始めたのよ」

潔さんもわかっていた。肝転移が見つかってタキソール治療を終えた3月末頃は、髪の毛はすっかり抜け落ちツルツルの状態だった。それからようやく髪が少し生えそろってきたところへ、放射線治療を受けたため、副作用で部分的な脱毛が始まったのだ(*4放射線治療による脱毛)。

「でも、また、すぐ生えてくるだろう。髪の毛については俺のほうが希望がないよ」

潔さんは、薄くなっている自分の頭を撫でて見せる。久しぶりに神田家に明るい笑い声が戻っていた。

ところが、それから4カ月ほど経過した9月中頃、美津子さんは肺に何かがつかえるような気がしてコホン、コホンと咳き込むことが多くなっていた。「いつかと同じ感じだな」と考えてみて、思い当たるのは前年の春頃のことである。そのときは、鎖骨上リンパ節の転移とともに、肺への転移も見つかったのだ。

週1回のハーセプチン治療のとき、沢渡医師に咳の症状を告げた。すぐにCT検査が行われる。検査のあと診察室を訪れると、医師はこう告げた。

「肺に影が映っています。また、転移が出てきたようですね」

ハーセプチン+ナベルビンで肺転移消失

「とうとうハーセプチンも効かなくなってしまったのでしょうか? 今度こそ、もうあきらめなければならないのでしょうか?」

美津子さんは、沢渡医師から2度目の肺転移を知らされ、またもがっくりと力が抜ける思いである。「脳転移も抑えられたし、もう安心と思っていたのに」と、気持ちがめげそうになってしまう。

「いえ、まだまだダメということはありません。確かにハーセプチン単剤では効かなくなった可能性もあります。そこでここはナベルビン(一般名酒石酸ビノレルビン)*5)という抗がん剤を追加してみましょう。ハーセプチンとナベルビンは相乗作用があるといわれていて、ハーセプチンの力をさらに引き出せる可能性があります。まだまだ、打つ手はありますから」

こうして2度目の肺転移に対して、ハーセプチン+ナベルビンの治療が試みられた。すると、まる3週間を経過したところで、美津子さんの咳がぴったり止まった。今度も抗がん剤治療は確実な効果を示したようだ。

10月15日、美津子さんは月に1度の定期検査を受けるために県立がんセンターを訪れた。いつも午前中は肺のCTや脳のMRI、血液検査を受け、午後から沢渡医師の診察を受けることが決まっている。

「こんにちは。調子はどうですか?」

沢渡医師は診察室に入ってきた美津子さんを見ると、いつにも増してにこやかな様子だ。そして、すぐに電子シャーカステン上に4枚の写真を示した。

「ご覧ください。MRIで見ると脳の腫瘍が影も形もなくなっていますよ。こちら側が治療前です」

[脳転移に対するガンマナイフによる治療前後]

写真:治療前

原発が肺がんで脳転移した例の治療前

写真:ガンマナイフで治療した5カ月後

その脳転移をガンマナイフで治療した5カ月後。腫瘍が見事に縮小している

美津子さんにも一目瞭然だった。

「まあ、ガンマナイフのおかげですね。すごいわ」

「ええ、ガンマナイフで徐々に腫瘍が縮小した結果です。それから、これは胸のCTです。1カ月前にあった影が見えなくなっていますよ」

「えーっ、そうですか。咳も止まってとてもラクになったと感じていました。ナベルビンが効いたということですね?」

美津子さんは心からほっとしていた。

「ハーセプチン+ナベルビンは再発乳がんの最も有力と考えられる治療法の1つですからね。このまま現在の治療をあと5サイクルほど続けてみましょう(*6ハーセプチン+ナベルビン療法の投与法)。今のところ、ナベルビンの副作用もあまりお感じになっていないですね?」

「ええ、先生がおっしゃったように、最初ちょっと点滴のとき、血管の中が熱いような感じがしますが、我慢できないほどではありません(*7ナベルビンの副作用)。今日はうれしいお話を聞くことができました。どうもありがとうございました」

こう礼を述べて、美津子さんは診察室を出ようとする。沢渡医師が言った。

「どうかお大事に。季節の変わり目ですから、風邪に気をつけてください。うがいや手洗いは大切ですから」

美津子さんは、改めて深々と頭を下げた。


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