「今日を生きる」(1)
子供のことが気がかりな入院生活
種々の検査が次々と始まり、私はS先生に「少しでも胃を残せませんか」と聞いてみた。若い先生は、軽く「残せたら残すよ」
私は気も重く、ほとんど何も食べられずに4、5日の検査が終わり、手術前の胃の洗浄が始まりました。何度も何度も管が通らず吐く私に、担当の若い看護婦さんは「もう一回だけ、もう一回だけ」と言いながら一生懸命に管を入れてくれました。「私の母も胃全摘出手術をしています」と根気よく優しく接してくれ、お陰で洗浄ができました。
手術前の4人部屋の2人は、やはり胃がんで胃全摘出手術をして3カ月くらい経った人たちでしたが、食事のお粥すら嘔お う吐としていました。みんなは当時50 代前後の方ばかり。私のことを「若いのに可哀想に」と同情して見ていました。
手術の当日に、同室の方の息子さんが「担架で運ばれるときは楽しいことを思い出して」と言って励ましてくれました。担架で運ばれながら霧の釧路では珍しい澄んだ夏空をしっかりと見て手術室に入りました。
夫が手術当日泊り込み、集中治療室で、痰を取る役割をしてくれました(このときの手術の方法等の説明書は捨てられずにいたが先日破棄した)。
3、4日してレントゲン技師が機械を病室に運び込み、私を座らせレントゲン撮影をしました。後で夫から私がライオンのような唸り声だったと聞かされました。
1週間が過ぎ、集中治療室から4人部屋に移りました。肩に縫い付けられた点滴用の管から栄養剤や輸血が始まった。ときには足からも点滴が入れられ、こうして苦しい入院生活がスタート。
ベッドから見える空は、秋空へと。点滴は凄い力があり、何も食べずとも「生きられる」と何度も思いました。
しかし、このときの状況は、病院衣が出血で汚れていても私は気にもかけず、他人が看護婦さんに「取替えて」と、お願いをしていました。それほど、なりふりを構いませんでした。
季節も秋になる頃、私の状態が落ち着いて来たので、子供たちとようやく会えることになり、私は点滴棒を押しながら、息子を売店に連れて行きました。幼稚園の息子は売店で3個しかない安価なミニカーを迷いながら選んで買い、病室に戻るまでの廊下を嬉しそうにスキップをして歩く様子を、今も感慨深く思い出します。
鍵を子供たちが各々に持ち、次女はバレー部に在籍していましたが部活を辞め、3人が助け合うようにしていましたが、幼稚園の息子は弁当も食べられなくなったそうです。息子は遊んだ後、家に鍵を開けて入るのが嫌で、遠く離れた長女の中学校前で待つときもあったようです。寒くなり、薄暗くなった電柱の下にいる弟の様子を学校の玄関先から見た長女は、可哀想だったと話していました。
夫は放送局に勤務で、夜勤もありました。
長女の担任が「困ることがあったら先生に電話をかけるように」と言ってくれたと喜んで私に報告に来ました。
見るに見かねた患者さんからの助言
入院生活も4カ月目に入りました。その頃、手術前に同室だった胃がんの方の娘さんが、私のところに来て「母が亡くなりました」と話しました。また別室の胃がんの男性の方も亡くなりました。
この頃、ようやくお粥が出るようになり、スプーンでほんのわずか食べても、すぐに嘔���ばかりの状態が繰り返し続きました。部屋は新しい人達となり、がん患者以外の方ばかりに。
みんなが各々退院の目処がついたある日、今まで吐いてばかりの私を見て、みんなで夕食後出かけていた人たちが、部屋の消灯後、看護婦さんの見回りが終わった後にみんなで私のベッド脇に集合しました。自分たちは入院して1カ月ぐらいしか経ってないのに、私がすごく痩せていく様子を見て、私に赤裸々に「助かる人も助からなくなるから、ご主人に何かあなたが食べられる食べ物を持って来てもらうようにしたら」等々。他人がこんなふうに親切に叱ってくれました。みんな私より年上の方ばかりでした。
この頃テレビで「おしん」の番組が流行していたが、病が姑と同じ時期だったので78歳の姑と、番組の「かち合う」をふと意識し、どちらが先に逝くのであろうと思ったりもしました。
食べると嘔吐が続く中、「生きる・生きたい」という思いで、洗面所に残された、同病の人が食べなかった天ぷらソバの香りに誘われひと口、立ち飲みをしたこともありました。
秋空が冬空に変って、寒い釧路の雪は大粒でポタポタと絵のように降ってきました。12月に入り窓から見ると、みんな冬仕度の衣替えになっており、子供たちの服装がとても気になり、学生の姿を見ると止めどなく涙が流れました。
やっと退院できた喜び
帰宅を考えたとき、食べられないので当然点滴を外すことなど考えが思い浮かばず、今考えると不思議ですが、点滴を下げるクギを台所に1つ、寝室に1つ、応接間とトイレの4カ所必要かしら、と思っていました。それほど食べられなかった。
こんな中で12月23日肩に縫い付けられた点滴用管が外され、抜糸をしました。そして腹部の網帯状の糸の抜糸も行われました(入院費用は高額であったが、夫が若いときに会社で「家族がん保険」に入っていたので何とか対応できました)。
私は早速N先生のところに行き「明日12月24日帰ります。小さい子供がいます」と決め付けた口調で話したのです。N先生は「正常に食事ができないで何処にも行かれんよ」「帰ります」「勝手にせ」と怒りっぽい口調で話された。
本当はその通りなのですが、点滴が外れた事実は「生きられる」と思い込み、心は子供のところに走ってしまいました。
12月24日、先生に「毎日でも通院します」と話しました。退院の当日は、子供たちと夫が迎えに来た。子供たちに「クリスマスの贈り物」の希望を聞くと、長女は「大きなミッキーマウスの縫いぐるみ」、次女は「勉強部屋が寒いので毛糸のベスト」息子は「ラジコンカー」を希望。フラフラしながらも買い物をして、普通の親になった実感をかみしめ嬉しくなりました。
その日は帰宅後すぐさま台所に立ち、次から次へと料理を作りテーブルは溢れんばかり。料理を作りながら、座りたい自分との葛藤でやっとテーブルに着いたら、私はお粥すら満足に食べられない自分に気づき、ポロポロと涙が出て泣き出してしまいました。
子供たちのことならどんなことも
54㎏の体重が34㎏位に激減している姿。しかし、私は3人の子供の親として「外側だけでも普通にキッチリとオシャレ」を今までどおりに心がけました。そうしたら、不思議と元気が少しずつ湧いて、何かをせずにはいられませんでした。
次女の「寒いので、毛糸のベストが欲しい」との実用的な要求を思い出して、私は編み物などしたことがないのに息子に毛糸のベストを編んでみました。模様なども入れてそれはとても良い出来栄えにあがりました(このベストは全てを知っているような思い出の品です。今、形を変えて私が冬に着用しています)。
しかし、買物に行くと身体の重心が取れないので杖が欲しい。でも、夫は若かったので「スキーのストックでも使え」と怒ります。事実歩けないので、私は自分で杖を作り、短い間ですが使いました。生きて帰ったら子供たちのためにどんなことでもしたい、その思いはその日から始まったのです。
でも、みんな出かけて独りになると、私は本当に「生きられるのだろうか」、足の付け根が開くほどの34㎏の体重で座り込む日がずっと続いていました。
夫は、私が退院後、安心してお酒ばかり飲む日が続きました。あとで夫は、胃がんを認めず自分のために妻を普通に元気な頃のように扱うことに決めたと話した。仕事はできるが、家庭では何もしない姿勢を通したのです。