「今日を生きる」(1)

渡辺禎子 主婦●北海道札幌市
発行:2013年12月
更新:2019年7月

「いつごろ胃ができますか」

夜、横になると、私は悪夢のように両親の夢を見て寝汗をかく。こんな苦しい中で、退院後、独りになったときに家庭医学書はとても怖くて読めなかった。

退院して最初の診察時にN先生は「黄色い便が出ているか」と。若い頃の私には嫌な言葉に思っていました。手術の前は茶褐色で黄色ではなかった。手術後は色がはっきりと変わっていた。便の色ってとても大切なことだと知りました。

また、N先生に命を預けているので「嘔吐ばかり続くのですが、いつごろ胃が出来ますか」と質問した。先生は椅子をくるりと回して、しっかりと私の目を見て「腕が取れたら、そこからまたできてくるかい」。実に解りやすい説明で有無もなく納得できました。

昔、がんは不治の病と思われていた頃です。抗がん剤は、飲み薬しかったようでした。がんの知識をあまり知らない私ですから、髪が白髪に変り大量に抜けて枕には髪の毛が沢山落ちこぼれていたので、当時は不思議で外科部長のA先生に問うと、「ショックで白髪になるし、髪はまた出てくるよ」と説明されました。

せっかく退院できたのに食後の嘔吐が続くので、N先生に告げると「ウーン、そろそろ抗がん剤はやめようか」と言われ、白い粉薬を止めたら、その後、時々、食べてもどさなくなり、消化の良い物は食べられるようになりました。

過日、釧路N病院職員の不祥事のニュースを新聞で読んでいたとき、N先生のコメントが載っていた。若かったN先生は、院長になっておられた。懐かしさと感謝で、思い出しながら記事を読みました。

明日を思い煩わず、今日を生きる

息子の入学式で

幼稚園から息子がもらって来た聖書をパラパラとめくっていると、無宗教の私の目に「明日を思い煩わず、今日生きよ」という言葉が留まった。私はこの文言が気に入り、以後、この言葉を支えにしました。

弱っていた私は、転んで右手首を骨折して石膏で固められました。でも子供たちの食事は人差し指と親指に包丁を挟んで料理をしました。病気をして、子供たちに辛い悲しい思いをさせたので、親としてできることは、どんなことでもすると退院して自分に誓ったから。でもこんな大変なときでも〝男子厨房に入らず〟の夫を憎みました。

ある日食事のとき、横に居たはずの息子が、私が嘔吐すると少しずつ離れ、遠くからこわごわ見ていることもありました。

私は過去に、服飾デザイナーになりたくて、4年間専門学校で学びましたが、夢叶わず家庭に入りました。しかし、子供たちに自分がデザインした洋服を、着せることが何よりの楽しみで、「生きている」ことを実感できました。そして、今まで以上に家庭を大切に考え、この今日という時間を、無駄のないように使うことに拍車をかけて多忙に暮らすようになりました。

息子の入学式に出席できたこともとても感激でした。そして長女の新設学校転入式には骨折中だったが、夫に手伝ってもらい着物姿で出席しました。当時は、ベビーブームでクラスは14組もありましたが、娘たちはしっかりと勉強をして上位にいました。

手作りの料理は幸せの実感

私は心の中で「生きることが���きるか」と常に葛藤があり、「食べることに生きることを感じる」を実践しました。

料理は昔から好きだったので、夫が当時最高級の高価なレンジを買い求め、私にプレゼントしてくれました。

そのレンジを毎日休むことなく使いました。手作りのパンやお菓子の香りは幸せの実感だったのです。家族の洋服も私がデザインをして、みんなにいつも褒められました。娘たちに「どうして勉強が常に上位にいることができたの」と聞くと、長女は、弱った私に成績を報告すると「凄いわねと喜んでもらったことが嬉しかったから勉強が楽しかった」と話してくれました。

やはり子供だから親の言葉を大切に受け止めてくれて、当時、子供の立場でできる精一杯の努力だったのでしょう。右手が使えない私に、長女は台所の後片付けを勉強が多忙な中喜んで積極的に手伝ってくれました。

ときには布巾の引っ張りっこをして、止めても長女は「物が片付くことは嬉しくて楽しい」と言ってくれ、私はかえって悲しい想いをした覚えがあります。

小学生になった息子は、スピードスケートのクラブに入った。その頃傷がまだ痛いので、お腹にさらしを巻くように病院で指導されていた。釧路の寒冷地では厳重に巻いていても寒さが傷に響くが、現地までの送迎は、各自でする決まりだったので他の父母と同じように振舞ったが、ときには他の母親の車に乗せてもらったことも感謝でした。

突然の腸閉塞

1年も過ぎた頃、夫も出勤する準備、長女の弁当も作り終えたとき、急に激しい腹痛と嘔吐に見舞われた。できたばかりの娘の弁当をひっくり返してしまった。救急車で釧路N病院に運ばれ、そのまま「腸閉塞」で手術になりました。寒い冬のときでした。

また食事ができなくなり、3カ月間入院しました。隣のベッドのおばさんは、地方の酪農家の方で、自分も経営の一端を担っているが、家族経営では嫁が病気でもすると離縁をしてもらうのが常だという。

そのおばさんは、街の牛乳は薄くて飲めないと、家からわざわざ運んでもらった牛乳を「飲んでごらん」と、コップに入れ差し出してくれたが、濃くて術後の私には飲めそうもありませんでした。

病院の中ではいろんな人に巡り合い、人生の縮図を見る思いでしたが、親切な人が多かった。やはりみな痛みを共有しているからだと思います。

3カ月が過ぎやっと退院できましたが、お腹の傷は縦に赤く脹れて二重線になっていました。

人々の温かさに触れて

まだ30代で白髪は嫌なので、白髪染めを買いに近くの薬局に行くと、知り合いの薬剤師が変り果てた私を見て「染めは身体に悪いよ」と止めてくれたり、買い物に行くと、店員さんが痩せた私を見て手助けをしてくれました。本当に多くの方たちに親切にしてもらいました。

また、いろんな方から「宗教に入ると力が出るようになるから」と熱心に誘われもしたが、私は今までも、何事も独りで熟慮して実行して来た自負もあり、自分が頑張れば「生きられる」と、宗教には心が動かなかった。

その一方で、あまり親交のなかった方の励ましが、とても嬉しく思いました。「T さんは、胃全摘して今カメラマンとして元気に活躍していますよ」と何気なく話しながら、手作りの美味しい肉マンをいただきました。このことに、私は非常に力強い安心感を持ちました。また別の方は、野菜を裏ごしにしたスープを遠方から自転車で運んでくださり、本当にありがたかったです。乗り越えた今も、その方たちのことを忘れられません。

しかし、こんないやなことも。社宅には娘と同じ年齢の受験期の子供たちが7人ぐらいいましたが、ある奥さんから「お母さんが病気なのに勉強ができて憎らしい」「上司に頼んで、実家に帰れば」など、赤裸々にそこまで言われたこともありました。

長女の受験も終わり、私の身体も落着いた頃、夫の札幌へ転勤が決まり、長女は進学校での転入試験で、再度受験することに。そんな中でも引越しの手伝いを進んでしてくれました。

出発の前日、私は心労で気を失って倒れてしまいました。夫は送別会でいなかったが、子供たちが助け合って面倒を見てくれました。(続く)

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