「今日を生きる」(2)

渡辺禎子 主婦●北海道札幌市
発行:2014年1月
更新:2019年7月

責任が重いほど生きる支えに

私は食べた物が腸に納まれないことがあって、食べ物を嘔吐しますが、仕方がありません。汚いので見られない様に心掛けています。

胃がなくなった事実は健常者の中にいると忘れていますが、すぐ思い知らされます。私は好きなラーメンを、豚骨で手間をかけてスープを作り、昔から家族にも喜ばれているのですが、胃がん手術後、10数年はラーメンから遠ざかっていました。今は量は少ないけれど食べられることに感謝しています。

また、卓球教室に通っていて、数年して皆さんと親交も深まり、一緒に食事に行ったりしますが、皆さんはもう終わっているのに私は、半分も食べられない。運動する人は旺盛な食欲で食べ方も早い。皆さんに待ってもらう始末。「どうして残すの?」と聞かれるが、私の病のことは知らない。

またあるとき、私の従姉がH国際ホテルに招待してくれて、皇太子も食べたコース料理をご馳走してくれた。少しずつ食べましたが、結局大部分を残してしまった。料理長が来られ「どうして残しましたか?」と聞かれたが、従姉が「胃が無いので」と、柔らかく話してその場は終わりました。

外食が嫌いな人はあまりいないでしょう。むしろ車イスや松葉杖のように障害が見えたらと思ったこともあります。

でも皆色んな事柄を抱えながら生きている。外科病棟の待合室では、不自由な身体の人をときどき見かけます。泣きたいときだってあっただろうと思うのです。

襖に絵を大胆に描いた

病気を隠しているのは、相手に気を使われたりもするからです。それに「自分で自分に力をつけなければ!」と自分を鼓舞し、「絵を描いたり、オシャレ」をして普通に暮らしています。それは人に、手を借りずに済むからでもあります。

健康な人は気づかないようですが、とくにがんを経験した私は「普通」に暮らしたい。何時でもそれが私の夢です。

若いときにがんになると子育てや、色々な責任で押し潰されそうになる。そして責任が重いほど悩みは深い。しかし「生きる・生きなければ」という気持ちもまた「深くて強い」。それが私には大きな支えとなった。

走りに走って来た人生。無茶な事が出来たのも病気が生んだ発想で、本来の自分がしたかった事は出来ませんでした。普通の人は「普通の有難さ」が分からない。私は自分の持てる力以上に走りました。私の夢は、「普通」に暮らしたかったことです。

自分の家で生活が出来る喜びは生涯忘れない。

定年後 夫が悪性リンパ腫に

今から2年前までは、人生ってこんなものだと、それなりに自分を納得させながら、坂道を歩いているようだった。夫も定年になり週の半分位仕事をして、私と暇をみて卓球教室に通うという普通に見える生活でした。

夫は結婚後、病気らしい病気をしたことが無かった。そんな夫が微熱や寝汗を出すようになった。私たちが2人で卓球するなんて考えられなかったが、きっと力み過ぎて熱が出たぐらいにしか思っていませんでした。微熱と皮膚が関連しているなんて思いもしませんでした。

乾皮症で皮膚科に通っていたものの、皮膚は瞬く間に象の皮の様に汚れた硬い皮膚に���化しました。皮膚科の先生が乾皮症の最悪の場合、全身にラップを巻く事もあると言われ、全身に軟膏を塗りラップで巻いた。翌日ラップの中には大量の皮が剥がれ落ち、ラップが膨らむ位になっていて吃驚しました。

不思議な現象で、これは身体の芯に何か怖い病があると私は判断して、「余計な事を言うな」と嫌がる頑固な夫に近くの総合病院を勧めました。

血液検査、CT検査、ペット検査等で結果は「悪性リンパ腫」。腫瘍は腹部他3か所にあるとのことでした。夫は皮膚の病気と思っていたようで家族も本当に吃驚しました。

そして、娘婿の勧めと紹介で、S札幌病院血液内科へ転院し、Y先生から検査結果と治療方針の説明がありました。悪性リンパ腫の種類や程度、また「抗がん剤は点滴で血管から入れるが漏れると皮膚は壊疽になるから動かないように」と言われた。そして「効き目が無いときには新薬を試す」などの説明を受けて家族皆に緊張が走りました。

夫の入院は8カ月にわたりました。私は様々な事を考えながら毎日病院に通う決心をした。

病院の食事は全て食べるのですが、夫は体重も激減していました。「病院ではカロリー計算されているのですよ」と娘たちに止められていたが、食事その他をキャリーバックに詰め込んで運びました。夫の病のときは、私は居た堪れないほど苦しかったが、苦しい中でも工夫をして毎日通いました。ときには小学生の孫たちまでも協力して、休憩室で私の気持ちを汲んで和ませてくれました。抗がん剤の効き目があり、夫の体重も少しずつ増えて行きました。

60代、今度は乳がんの疑い

ようやく夫の退院の目処がついた平成23年、私は今までの月一回の肺がん後の定期レントゲン検査と、最近胸が痛いのと、触診で気になることもあり、それも心配でK札幌病院へ行きました。

肺は良好でしたが、「乳がん」の疑いがあり、入院して生検することになった。

子供たちには結果が出てから話そうと考えた。今こんなときに、心配を掛けたくないので悩みました。娘から家の鍵を預けてと言われているほど心配を掛けているのに……。安心して夫を迎え入れる筈だったのに……。こんなときに困りました。

長女に生検のことを打ち明けたとき、長女は言葉に困ったのでしょう「お母さん手術に慣れているでしょ」。「こんなに5回もいい加減にしてほしいわ!」と私は言ったが、後は沈黙になった。

その頃、我家の両隣が売買され建築工事が始まった。工事の騒音・塵芥と人々や多数の車の出入りは、何かしら不安をかき立てるような感覚でした。こんな状況の中で私の入院、夫の退院等は出来るだろうかと不安が増長しました。

そして長女に「お父さんの入院中に私のほうを終らせたい。だから私は独りで大丈夫よ」。娘は「大丈夫両方に行けますよ」と言う。夜、両隣が暗い工事現場となっている自宅の中で不安と悩みを抱えながら考えた末、結果が「乳がん」だったら手術日を皆に隠す決心をした。

東京に住まいしていた次女は、夫の入院中、毎月来てくれて、皆言葉にはしていませんが覚悟していたと思います。その次女が帰京したばかりだったこともあり、隠すことにしました。共働きの次女が東京から、長女も小学生の子供の面倒を見ている中で、私たちに本当によくしてくれたが、これ以上、私までも負担を掛けられない思いでした。

娘たちには、まだ何も判ってないので心配するのは無駄だからと説明し、結果は1~2週間後に出ることを告げた。

実は私の生検は飛び込みで、O先生は少し時間的にも無理をして下さいました。

個室で生検30分前に、看護師さんが来て「この下剤を全部飲んで下さい」と、胃の無い私に大きなボトルが渡された。

こんなに短時間に飲めるだろうか、いや、手術は色々の準備があるからと思って無理して飲んだら激しい腹痛と下痢が続けて起こった。別の看護師さんが手術室へと迎えに来た。下痢で困っていると話すと「渡辺さんは胃が無いのに間違って量が多かったのね、済みません」。こんなこともあるのですね。

生検終了後、個室に戻り、ようやく全てが上手く乗り越えられたような気持ちになり、苦しい中だったが救われた気分になり一日が終わった。

そして退院日、身軽くキャリーバック一個で颯爽と帰宅する予定で会計に向かったが持参したお金が全然足りません。長女に電話をしたら「はい分かりました」と笑い声で話しすぐに車で迎えに来てくれた。今思いますと後日払いでも良かったのに夫がまだ入院中だったので、一つずつ片付けたかったのですね。程なくして、夫は寛解をして8カ月ぶりに退院しました。

手術日のことで親子げんか

そして私は病院へ結果を聞くために出かけました。

「乳がん」でした。戸惑う私にO先生は肩を叩いた。そして、早速手術の手配に入りました。先生は説明のために、子供を呼んで欲しいと話されましたが、私は夫を娘が看守っている状況等、家庭の事情を話しました。次に看護師が来て「私が娘だったら教えて貰ってから手術をして欲しい」と言われましたが、私は遠慮気味に静かに「出来ません」と伝えました。

娘たちには、「乳がんだったけど、まだ手術の日は決まらないのよ」と告げました。

長女からも東京の次女からも「決まっているでしょう!」「予定を組んで日にちは決まっている筈と思うけど」

普段もの静かな娘たちから強い口調で迫られて、ついつい喧嘩調になった。

当時のことを長女は、廊下を挟んだ部屋にいた子供が、用紙に「怒らない」と書いて見せたのよと、それほど激しいやり取りでした。とうとう長女には「決まっています。でも絶対来ないで、私は独りで、自分に集中していたいから……」

長女も過去に同じような経験があり「分かりました。その気持ちは私にも理解できるから」と解ってくれた。そして、次女には言わないと約束してくれた。

私は入院の準備をして、重たい気持ちを打ち消すように、夫にはすぐに帰れるからと声をかけ出かけた。先生は納得してくれ、手術前の家族への説明も独りで聞くことになった。

右の乳房切除手術でした。翌日の昼頃歩けるようになり、長女へ手術が終わった報告をした直後、長女がやってきて、「お母さん」と声をかけてくれた。私たち母子は何時も一言の言葉に深い思いやりがあるのです。

こうして無事に退院日を迎えた。そこになんと娘たち2人がそろって迎えに来たのです。次女は退院日を長女から聞いて、私に知らせないで東京から駆けつけていたのです。全て思い遣りからの嘘でした。不思議な家族のように思うのですが、普通って本当に「努力と運」で出来ると思うのです。

私がいつも手作りをしていたように、娘が沢山の惣菜を持って来ました。改めて母親になった娘に感心しました。退院した喜びよりも、娘の成長を喜びました。

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