「夫婦でがん」

西山きよみ 主婦●奈良県磯城郡
発行:2014年3月
更新:2014年6月

子供の言葉で手術を決意

長女が勤め先の近くのケーキ屋さんに特注してくれた銀婚式のケーキを前に

私は主人が入院している病院で私の手術をしてもらえば、パジャマから服に着替えて主人の様子を見に行けるかな? と安易な考えをしましたが、病院を変えれば検査をもう一度やり直さなければいけないし、簡単に検査の予約も取れないし、主人が退院した後、私の通院があるなら奈良の病院のほうがいいだろうと思い、最初に診て頂いた奈良の病院に手術をお願いしました。

しかし、本当に今、私はこの時期手術をすべきなのか? 先に延ばすべきではないのか? これで良かったのだろうか? と、まだ心がグラグラ揺れていました。

子供達は主人の今の状態から「お母さんの手術を先に延ばしてもお父さんの状態が良くなることはないので、せっかくお母さんの乳がんは早く見つかったのだから早く手術をすべきだ。私達は両親を二人ともがんで亡くしたくない」と言ってくれたので、決心をしました。

先生にお聞きすると、私の入院は1週間ぐらいの予定で、全摘手術なので手術の後の放射線治療もないとのことでしたから、さっさと手術をしてもらって、主人の病院へ行こうと思いました。その時期、主人はまだICU室の個室にいました。

世間ではインフルエンザが流行して、テレビや新聞で学級閉鎖等のニュースが話題になっていたのを主人は知っていましたので、主人には「私がインフルエンザに罹り、うつしてはいけないので病院に行けない」と嘘をつくことにしました。

主人の入院先の先生には私が乳がんで手術をすることを話しました。先生は私の入院が何日かかるか気にかけられて「一週間ですね」と念をおされました。

私が明日、入院だという日の夜、主人のベッドから離れたくなくて帰れなくなっていたのですが、それを見かねた看護師長さんが傍に来て私の背中を何度も摩って、「大丈夫。大丈夫。ご主人は大丈夫だからね」と言ってくださったその手の温かさが、じんじんと心に伝わって来たのを忘れられません。

大丈夫と励ましながら

私の入院中は、3人の子供達が交代で主人の病院に行ってくれることになりました。私の手術当日は長女と長男が来てくれて、次男が主人の病院へ行ってくれました。

次の日からは近所の友人達が私の病院へ交代で、誰かが来てくれ、私の世話や洗濯、話し相手になってくれました。

手術中のセンチネルリンパ節検査で私のがんはそこまでいってなかったので、その他のリンパ節切除もありませんでした。

手術の翌日は麻酔の影響でふらつきと嘔吐があったのですが、点滴をしてもらうとそれもすぐ治まったので、私は「早く元気になって主人の病院へ行かなくちゃ!」と積極的にリハビリをがんばりました。

リハビリ指導の時間だけでなく、足が衰えてはいけないと思い病院の中をウロウロ歩き回りました。新生児室のガラス越しに新生児の赤ちゃん達の顔を見たり、2回目も帝王切開だとわかっていても、2人目の赤ちゃんを産んだお母さんに元気を貰いました。

食事も残さず全部食べました。同じ病室で私と同じ年恰好の方2人とお友達になりました。いろいろとこれからの治療のことやお互いの住所や携���番号、メールアドレス等を教えあってペチャクチャおしゃべりしていると、独身の若い方で乳がんで明日手術を控えていた方が私達があんまり楽しそう⁉ に話していたので私達の輪に入ってこられました。

その方は手術前に抗がん剤でがんを小さくしてからの手術でした。抗がん剤ですっかり髪の毛が抜けたのだと言ってカツラを脱いで見せてくれました。お母様をがんで亡くされ、ご自分が今度がんになったのでとても不安がられていました。

私達の会話が「乳がん」手術をした後の人の会話じゃないみたいに明るいので驚いたようでした。私はあの時の看護師長さんのように彼女の話を少し聞いてあげて背中を優しく摩って「大丈夫! 先生にお任せしとけば大丈夫だからね」と励ましてあげました。

大丈夫だと彼女に言いながら私は自分自身に「大丈夫だ」と言い聞かせていたのかもしれません。

手術後の細胞検査の結果、幸い私のがんはホルモンに影響されるがんなので「アロマシン」というホルモン阻害薬を5年間飲むということでした。

アロマシン= 一般名エキセメスタン

夫の元へすぐにいきたい

私が退院した日に、息子に「このまま主人の入院している病院へ行く」と言うと、「お父さんは大丈夫だから、今日は取りあえず家に帰ってお母さんは体を休めて明日行こう。お母さんはまだまだこれから大変なんだから」と言われ、次の日の朝、主人の病院へ行きました。

私が行くと主人は不思議そうに私の顔を見ていましたが、すぐに私だと気がつき、目に薄っすらと涙を溜めていました。人工呼吸器は外されていましたが、言葉にはなりませんでした。

私の入院中に息子から主人が緩和に入ったことを聞かされていました。私には主人が一回り小さくなったように思えました。黄疸が出て体をごそごそ動かして痒がっていましたので、以前看護師さんに教えていただいたように熱いお湯に重曹を溶かして体を拭いてあげると気持ちよさそうでした。その時の気持ちよさそうな顔が今も浮かびます。

以前、主人が先生に「家に帰りたい! タクシーの運転手を呼んでくればなんとかして上手く乗せて帰ってくれる」と無理難題を言っていたので、せめて最後に主人の望みを叶えてあげたいと、家で最期を迎えさせてとお願いしました。

もう動かすことは無理でここには緩和病棟はないが、緩和の先生が毎日来て下さるし、「ぼくたちに最後まで面倒をみさせて頂きたい」とおっしゃったので、主人には「ごめんね」と言ってこの病院で最後までお願いしました。

でも、その夜、私を待っていたかのように容態が急変して血圧が異常に下がりました。先生には再手術の時、主人の手紙をお見せしてありましたから「薬で上げられないことはないが、ご主人がおっしゃっていた延命措置なのでどうしますか」と言われました。

この時が主人が白い封筒の中の手紙に書いてあった「危篤状態に陥った場合は、特別な延命措置は不要。大変辛いでしょうが、思い切って担当医にその旨を伝えてください」なのか? と思いました。

最初で最後の年賀状

主人の退職祝いのイタリア旅行「真実の口」の前で

もうこれ以上痛くてしんどくて苦しい思いを終わらせてあげようと思いました。もう充分「がん」と闘ってきましたね。

でも私のためにもっと闘ってほしかった……それが私の本心です。

二人でまだまだ行きたいとこもあったし、見たい物もあった。私達が結婚する前のお正月、あなたは私に最初で最後の年賀状をくれましたね。

それには「今年から数十年どうぞよろしくお願いします。良いお年でありますように(しなくてはなりません)君に差し上げる初めてでもあり、また終わりでもある貴重な年賀状ですね。来年からは絶対に出さないから大切にしてください。昭和47年元旦」とありましたから、私は今もあなたからの年賀状を大切に持っています。

これからはこの年賀状とあなたが紙の端に小さく書いてくれた「きよみ あいしてる」という紙片を私のお守りにします。

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