「夫婦でがん」

西山きよみ 主婦●奈良県磯城郡
発行:2014年3月
更新:2014年6月

真っ赤な一本のダリア

2人で歩いたウオーキングコース。春は桜の花見をしながら……

葬儀は主人の言ったように長女夫婦、長男、次男夫婦、孫3人、私と主人を入れた10人でした。小さいけど心のこもったステキな式でした。

葬儀の朝、私は主人とよく歩いた朝の散歩道を一人で歩きました。涙が止めどもなくあふれてきました。首に巻いたタオルで汗を拭くふりをしながら涙を拭きました。家に帰る少し手前で何も知らないご近所の方が、夏の初めに私が差し上げた球根の花が咲いたよと言って、真っ赤な大きなダリアの花を一本くださいました。わたしは主人の棺の横に、小さい花瓶にさしてあげました。そして最後に棺の中に入れてあげました。

主人が亡くなってから1か月ぐらいは事務的なことに追われ「悲しい」という感覚が麻痺しているかのように、冷静に受け止めている自分がいました。

しかし、時間が少しずつ経つにつれ、私の自分との闘いが始まりました。

「自分が乳がんにかかった」ということより主人が亡くなったことのほうが辛くて「もっと主人にしてあげられることがあったのではないか!」「こんなに早く逝ってしまうのなら主人が亡くなる前の一週間、傍にいてあげればよかった」

私は自分の命を守って自分だけが助かった。自分だけが生きている。大きな喪失感に襲われて自分を責めました。

「今こうして自分が生きている意味がない」の思いが加速して大きくなり、心が押し潰されそうになりました。

これまでの価値観や生活など「当たり前」だったことが、まったく意味のないもののように感じ、何もしたくないという「無気力」な状態になっていきました。

立ち直りのきっかけ

頭の中ではこれではいけないと思っていても、主人がいつも座っていたパソコンの前の空の椅子を見て泣き、テレビの前でゴロゴロと昼寝をしていた、今は誰もいない部屋にある主人のにっこりと笑っている遺影を見て泣いてばかりいました。

そんな平成23年3月11日、あの悪夢のような東日本大震災がおきました。テレビの画面を見ていて、まるで映画かドラマを見ているかのようで、現実に起きていることが信じられませんでした。

私は生きて、こうやって2本の足で立っている。無念の死を遂げられた沢山の人達。私は泣いてなんかいられない。自分が生かされていることに感謝しなくては、これからの私の人生何もしないで泣きの涙で暮らして年老いていくのか! 私の残りの人生、あと10年頑張ってみよう。大げさではないが世間のお役に立つことがまだあるだろう。孫達の子守でも公園の草むしりでも……なんでも。

娘や息子達にあまり世話を掛けないうちに、そして私があまりおばあさんになってあなたの所へ行ったとき、私のことがわからなくなってはいけないので、あなたの所へは早く行きたいとは思いますが、こればかりはままにならないことですから。それは神様にお任せしておくことにしましょう。

主人は病院の治験にも積極的に参加して、よく「ボク、お金はありませんが、がん持ちですねん」と明るい性格で回りの人を笑わせ、いつも私を優しく包んでくれていたことに感謝します。

「ありがとう。あなた」

ボケ防止に息子が私に赤いパソコンを買ってくれまし���。今こうやってやっとのことですが、この原稿を赤いパソコンで必死で打っています。

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