「懲りずに夢を見ながら」

小西雄三(49) ●ドイツ バイエルン州ミュンヘン
発行:2014年4月
更新:2014年7月


大学病院で肝転移の手術を受ける

8月に、肝転移の手術をした。入院した病院は、今までの赤十字病院とは違い、郊外に建つ大病院で、ヨーロッパで一番手術台数が多く、臓器移植などで有名で、肝臓手術の専門家が揃っていた。病院自体が1つの街で、小さな病院しか知らない僕には、戸惑うことが多く、好きになれなかった。

僕が持参したデータの入ったCDも、コンピュータの系統が違うという理由で使えなかった。赤十字病院の外科医に、自信がないので、ここで手術は出来ないと言われると、その病院に頼むしかなかった。

入院して何日も経つのに、手術の日が決まらず、朝の回診時にしか医師に会えないので、その時に質すのだが、答えはいつも「まだ」。やっと手術日が決まり、手術予定表に朝7時手術となっていた。朝5時頃から用意して待っていたが、手術室には午後3時。僕にとっては人生を決める手術だが、ヘリコプターが常時舞い降り、瀕死の重病患者が大勢いる大病院では、僕の手術は特別ではないのだ。

病室は4人部屋だったが、看護師の数が全然足らず、ナースコールをしてからやって来るまでに1時間以上待たされる。

手術は成功して、順調に回復していくと思った。かなり後で、他の医師から手術時に肺に穴が開いてしまったと聞いた。その時は肺に管が入っていて不思議に思い、理由を聞くと溜まった水を出していると言われた。3日後に管を抜いたが、翌日には水がまた溜まった。早朝3時にCTを撮り、局部麻酔で管を入れ直した。管が骨の間を通る時、肺に突き刺さる時の、その痛みは忘れらない。

この病院に長く入院すると、体が悪くなりそうだった。病院にいる大勢の患者の何割かは僕のように、ここでしか手術は無理と言われた患者だろう。他の病院の選択はなく、命が助かるのなら、何でも我慢すると決めている患者だ。忙しいのはわかるが、もう少し何とかならないものか。

日本から姉妹が見舞いに

自宅近くの花屋のおばちゃんとの会話も楽しみのひとつ

「腫瘍は全摘出できました。エコーを肝臓に直接かけてチェックしたので、確実です」と言われ、喜んだ。そして再発予防の化学治療が始った。一度、アレルギーショックを起こしているので、点滴は倍の時間をかけて、ゆっくりと行われた。前回と同様の療法で、1クール2週間、それを6クールすることになった。がんを克服‼ やったね、そう思った。

9月の終わりに姉と妹が、日本から見舞いに来てくれた、少ない休暇をやりくりして。僕は、涙が出るほど嬉しくて、こんな姉と妹を持って幸せだ。彼女たちが来た時期に、ミュンヘンではオクトーバーフェストがあり、飛行機代も割高だった。

ちょっと無理して車を運転して、2人を空港まで送り迎えした。化学治療が始まったばかりの僕は、手術の痕がつれて歩きにくいということを除けば元気で、姉たちと過した4日間は、とても楽しかった。2人といると、子供の頃の記憶が甦った。

夢がきっかけで仏画を描く

3クール目の化学治療の時、またもやアレルギーショックを起こした。それでアービタックスは中止に。それでも再び、アレルギーショックを起こしかけたので、オキサリプラ��ンも中止に。この時は、気を失う前に応急処置をしたので、入院には至らなかった。姉や腫瘍内科医に、「個人差があるけど、化学治療を完遂できなくても、治療効果はあるはずだから心配は要らない」と言われたが、心の中に、何かわだかまりができた。

「早く元気になって」と家族は願っていただろうし、妻は、さっさと働きに行ってくれ、と思っていただろう。彼女は「病人の我儘で、好き勝手にふるまうな、家族のことを考えろ!」とよく言った。その愛情のない言葉に、心がささくれた時は、姉や友達の助言に気を取り直した。

今までのような肉体労働は無理でも、できる仕事を見つけ早く社会復帰をする。25年間、趣味のロックバンドでギターを弾いてきたので、元気になってまた、自分のバンドを組むという夢を、いつも寝る前に描いていた。絵もその頃、よく描いてた。

11月のある夜、夢の中で声がした。命を助けたのは仏画を僕に描かせるため、と言う。断ると目が覚めてしまい、その後眠れない。次の夜も同じ。3日目の夜に「やります」と答えると、やっと眠れた。今でも仏画を描き始めてよかったと思っている。我流だが、仏画は芸術性よりも、人の心に役立つという気持ちが大事と思っているし、ライフワークの1つである。

回復後の自分を夢見ながら

化学療法を終えて、友達の役者に招待され、クリスマス前に、ミュンヘンから150キロ程離れたアンスバッハという小さな町に、演劇を観に行った。その町は、昔からの建物が多く残っていて美しく、そこに雪景色が加わり、忘れられない風景の記憶になった。

長い間、僕にとって雪は戦う敵だったが、雪を鑑賞できる心が戻って来たのが、とても嬉しかった。頭の中に、ルイ・アームストロングの「この素晴らしき世界」が流れてきた。

僕は女性歌手と2人で、エヴァ・キャスディの歌をたまに演奏している。彼女は若くしてがんで亡くなった歌手で、その歌声はがんに蝕まれていることを感じさせず、今を生きている楽しさを、伝えてくれる。音楽は、慰めるものではなく、楽しむものと思っている僕に、確信を与えてくれた。

仕事に追われ、楽しむ人生を見失っていたが、がんになったおかげで、食いしばった歯を、硬く閉じた目を、緩めることができた。その頃、僕の目は、僕を待っているであろうバラ色の人生を、見ていた。

期待を込めてリハビリに

年末に、念願の再手術でストーマが不要に。普通の人間に戻った、と喜んだ。しかし、手術直後から下痢が始まり、日に何十回もトイレに通う生活になったが医師から、「人によるけど、4週間から3カ月位で、ゆっくりとがんになる以前の状態に戻る」と聞いたので、その後の心配はしていなかった。

チェコとの国境の近くにあるカームという町の療養所に4週間滞在することに。ここで、この1年間に落ちた体力を少しでも取り戻して、食事や下痢管理についてのアドバイスをもらおうと思っていた。

リハビリの医師の指示で、下痢止めの薬とオピュームの量を増やした。下痢止めの薬の処方箋に、5日間以上の服用禁止と書かれていたので、医師に相談すると、僕のように常時下痢をしている患者は、服用を続けなさいと言われた。

オピュームは麻薬の一種だが、腸の動きを遅くする作用があるので、中毒にはならないと言われ安心した。が、体力作りもうまくいかず、下痢の管理も思ったようにはいかなくて焦った。

乳がんを患った女性たちも多く、同じがんを患った母や姉を、思いだした。女性たちは、明るく元気で、将来に対して夢を持っている人たちが多く、男性たちはくよくよと不安を抱えたままの人が多く、病気になった時、男性のほうが弱いのだろうか。

僕はこれからの仕事のことなどを、リハビリの福祉課で相談したが、年齢や経歴などを考慮すると、費用がかかりすぎて元が取れないから、再就職訓練を受けるのは難しく、失業保険をできるだけ引きのばして、最終的には障害者年金受給者になるのが一番いいと言われた。実際その通りになったが、元気になりさえすれば、先のことはまだわからない、と楽観的だった。

リハビリから帰って来ても下痢はちっともよくはならなかった。薬をうまく使用して、何とか普通に暮らせるようになろうと試みた。家族の夕食を作っていたが「他の家事もしろ」と妻に怒られる毎日だった。

肝臓に再発する

秋になり、長い間胃のあたりに痛みを感じる日々が続き、以前に急性すい炎を患ったことがあるので不安になり、病院で診てもらうと、すぐに入院となった。盲腸炎と診断され、手術をしたが、その後も、一週間ほど同じような痛みが続いた。ストーマを付けていて再手術をした大腸の部分がかなり太くなっているから、それが原因かもしれないと言われたが、結局わからずじまい。僕としては、痛みが無くなればそれでよかった。

11年の新年を迎えたが、体調はあまり良くない。それでも我慢をしていれば、そのうちに良くなるだろうと思っていた。

落ち込んだ時は、「まだやれる、自分のために生きてんや!家族や周りの人に嫌われてもええ、後悔せえへん生き方せな、生かせてもろてる意味あらへん!」と、大阪弁で思い、たとえ誰かにそう言ってもらえなくても、そう信じるようにしていた。

2011年3月11日、僕は眠れぬ夜を終え、朝からテレビのニュースに映る東北地方を眺めていた。テレビのニュースが、津波による大勢の人の死を伝えていた、その2日前のCT検査の結果、この4カ月の間に肝臓に腫瘍がまた再発しているのがわかった。

再発と聞いて、ショックというよりも、再発防止の化学療法を最後まで遂行できなかったから仕方がない、という思いのほうが強くあった。腫瘍内科医が、さほど大きくない腫瘍だが、化学療法で縮小し、ラジオ波焼灼療法を行うと言った。

腹膜に再発、手術を受ける

12年になり、化学療法をしなくなったが、ひどい下痢も痛みもあいかわらず続いていた。

夏にCT検査で、腹膜にがんが見つかり、手術することになった。一人ぼっちの退屈な入院生活だったが、手術は成功し満足だった。退院してからは、毎日元気に、料理に励んでいた。

10月から、ゼローダのみの治療が始まり、朝夕ゼローダを2週間飲み続け、1週間休薬という、楽なものだった。薬を飲んでいる間は、前から続いている手足の痺れがひどくなり、下痢もひどくなり、気分が悪くなるが、今までの化学療法に比べると症状も軽く、食欲もあり、結構元気に最初の3カ月を過ごした。

そして、もう3カ月延長になり、軽い化学療法だからかなと、とくに不思議にも思わなかった。

しかし、13年になると、食欲がだんだんなくなり、しんどくなっていった。

どんな時でも懲りずに夢を

13年6月父の納骨をすませ日本からミュンヘンに戻り、またいつもの生活が始まった。

体調が良くなく、最高気温36度という、ミュンヘンでは考えられない暑い日が1週間続き、食欲もなくなった。それでも、CT検査の好結果に喜び、ゼローダ治療がまた始まった。

がん治療中は、治ることが目標で、治りさえすればそこからの人生は、新しい素晴らしい人生になると信じていた。しかし、現実は、失った時間と、がん以前の体力が戻ってくることはもうない、という事実だった。

僕は、家族や国に養われるのは嫌だ。だから早く体力を回復して、精神的にも元気になって、経済的にも自立しようと思っている。夢みたいな話だが、夢を見るのは楽しい。がん患者でなくなっても、長いがん治療を終えると、体が弱くなってしまう。その代わりに、精神がタフになっている。

いつ実現するかわからないが、なってみたかったもの、やってみたかったことを実現する夢を、僕は今もみている。

病人になった経験のない人に、病人を本当に理解するのは難しいと思う。僕も以前はそうだった。妻には今でも、「仮病を使ってしんどいふりをして、できるのに何もしない」と何度もハッキリと言われている。

病人だった僕は、現在も体に不都合があり、病人のようにしか生活できない。それでも、僕は生きているし、この先も、楽しむために、限りのある時間を費やしていこう、と思っている。

明日が、先が見えないから、何が起こるかわからないからこそ、希望がもてる。先が予想できたら、希望を失う。そんな話を聞いた事がある。

だから僕は、何度も失敗して落胆して、それでも懲りずに、奇跡が自分にもいつか起こると、信じていられる。

平成7年7月7日に生まれた息子が、今年18歳の誕生日を迎え、ヨーロッパでは18歳で成人なので、子育ての責任を終えた。もちろん、子供たちはこの先も僕の子供であることに変わりはないが、それでもこれで、1つのコンマを打つことができた。

そしてこれを書くことによって、1つの区切りをつけよう。

僕はがんとの決別はまだできない。今も、ゼローダ治療中で、この先いつまで続けるのかもわからない。

痛みも苦しみも、本当は存在しない幻想で、脳がそう感知しているだけ。嫌な思い、辛い思い、それは幸せの下ごしらえ。どんな時でも、懲りずに、夢を持って生きている。

命の長さよりも、生き方、そして何を感じてきたかが大切だと思う。死は、誰もがたどり着く到達点だが、そこへの道程はすべて違う。僕の道を、懲りずに楽しく、ゆっくりと行こう。

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