「イナンナの冥界下り」 第1回

編集●「がんサポート」編集部
発行:2016年8月
更新:2020年2月


「子供はいないんです、犬はいますが」

一通りの経過をお話しした後、Nクリニックから持参したCDの画像を見ながら「初期ではないやね」とG先生。

国立がん研究センターのホームページにはがん情報サービスのサイトがあり、患者必携「がんになったら手にとるガイド」がある。がんと闘うために患者は自分の病気について情報を集め、よく理解する必要があると啓蒙している。既に飲み込む時のつかえや痛みや出ている私が初期の病期でないことはわかっていた。

転移や浸潤を調べるために改めて検査を指示される。その日は血液や粘膜細胞検査、心電図、肺活量などなど。翌日に内視鏡検査、翌週にCT検査等々、検査の予定をちゃちゃっと手配してくださる。CT検査の後、がんの進行状況などについて詳しく説明をするので「家族の方と来てください」と言われる。

今まで自分の事は自分で決めていたので少しためらっていると、夫婦仲を疑われたか「お子さんでもどなたでも、自分の病気のことを自分しか知らないのは良くないので」と言われた。

「子供はいないんです。犬はいますが」

「犬じゃダメだな」といわれ、「では、連れ合いと」そんな軽いやり取りをしながらも、検査の説明書や承諾書、入院申込書などをプリントアウトするG先生。

「ここはお役所なので書類が多くてね」初診のG先生、乗りが良い。

「初診日にいきなり入院申し込みか」と早い展開に若干戸惑いながらも、安堵する。

たった2日でいっぱしの患者になった気分

その夜、兄家族に病気のことを話す。入院の申し込みに際しては保証人や身元引受人が必要で、その承諾を貰わねばならない。何より入院ともなれば身の回りのことなど助けてもらうことも多々あるし、それより何より「妹が食道がん」ではかける心配は尋常ではない。なぜだろう、この時が一番緊張したかもしれない。提出書類は、治療費が支払えない時は肩代わりすること、万が一の時は身柄を引き受けることを承諾しろと言う。否応なく「死んじゃったら連れて帰ります」の表明。「命にかかわる事態なんだ」と思わされる。まぁ、お役所だから形式的なことだけどね。

翌日は大嫌いな内視鏡検査。こんなことになるなら毛嫌いせずにもっとまめに受けておけば良かったと思う。待合室には上部内視鏡検査を受ける患者向けの手順・心得ビデオが流れている。血圧を測って待つのだが、やはり少し高めだ、そりゃ緊張するわ。

「こちらの病院では初めての検査ですので、少し時間をかけて良く見せていただきますね。鎮静剤を打ちます」

使い古されたフレーズだがほんとに『俎板の上の鯉』それも悟った鯉。力抜かなきゃ、力抜かなきゃ、ふぅ~、ふぅ~。

「ピロリ菌はマイナスですね」の声、それは知ってる。あっ、イソジン臭、ヨード撒いたのかな。「ここからはもう入りません」という声も聞こえたが「思う存分やっつけてください」

終了後看護師さんに付き添われてリカバリー室へ、検査後の注意事項の説明書をもらって鎮静剤が抜けるまでしばらく休む。横になってぼんやり天井を見ながら、まだ水曜日だ���思う。たった2日でいっぱしの患者になった気分だぜ。

工房に戻り姉にメールを書く。あまり頻繁に会ったりすることはない間柄だが、「来年の誕生日プレゼントが届かなくて病気が発覚するとまずいかなと思って」と。他に知らせる人は特になし。友達少なっ、じゃなくてこういう場合は元気になったら報告でしょ。

「これは治りますから」

天気の良い日曜日の午後。工房の庭で草むしりをしていると、大声で呼ぶ声。「電話っ!」。「日曜日に会社から?」と急いで中へ入ると「救急車呼んで!指切った」と血を滴らせた連れ合い。工作機械でケガをした。「ん、もう、ぼんやり考え事なんかしてるから」と思いながらも、「悪い悪い私のせいね」。

救急隊員の方の「奥さんも乗って行かれますか」のお誘いはお断りし、「帰りはタクシーで帰ってね」と送りだす。軽症ならいいけど。程なく工房には駐在さんが事情聴取に見える。みみたの散歩とみゅうのご飯といつも通りの日課をこなす。「救急車かぁ、今は流血騒ぎの方が大ごとだな、がんは見えないし」幸いケガは右手指3本、中指の先を落とし数針縫うことですんだ。

火曜日、CT検査と外来受診の日。共に告知を受ける連れ合いとはケガの消毒などの都合で、病院で待ち合わせた。

「指が自由に動くようにしてもらった」というその右手は指3本が別々に包帯で巻かれパーをした蛙の指のようだ。こんな時にふざけるつもりはないんだけれど、ドリフ大爆笑・もしもの付き添い人。粗忽者ふたりは検査の場所を間違えて一時院内迷子になったりもし、「時間かかり過ぎてると思って」と探してくださったG先生。

諸検査の結果、リンパ節に転移があるとのこと。X線の画像では食道は狭窄して1㎝ほどになっている。

「先生のお薦めの治療はあるのでしょうか?」との質問に「今進めている臨床試験があるんだけど、若いし、女性だし、美人だし(これはなかった)ぜひ、やって」

食道がんは高齢の男性の罹患率が高い、若い女性は欲しいサンプルなのかもしれない。58歳(食道外科ではこれでもとても若いらしい)、身長154㎝初診時体重38㎏、1カ月で2㎏ちょっと減っていた。

「頑張って体重戻さないとだめですか?」と聞くと「僕はこのくらいが丁度いい」G先生はやせ型がタイプなんだ。じゃなくて皮下脂肪は少ないほうが手術がやり易いらしい。

「午後に消化管内科を予約してあるので受診して治療の方針を決めてください、これで僕の出番は手術までないんだ」

「あっそうなんだ、その時はよろしくお願いします」

手回しが良くて細やかな気遣い、そして一言「これは治りますから」

進行性食道がん、ステージⅢ(III)

昼は病院内19階にあるレストランで雑炊を食べる。これから治療が進むという安心感からか思いのほかたくさん食べられた。レインボーブリッジが望める明るい見晴らしの良いフロアには点滴台を携えた入院患者の方も何人か見受けられる。

消化管内科C先生から治療方針について説明を受ける。進行食道がん、遠隔のリンパに転移はないのでステージⅢ(III)。

ステージⅢ(III)の場合、手術ですべてのがん切除を試みる。ただし、体力や年齢によって手術に耐えられない場合や、術後の生活の質を考慮して化学放射線療法のみで手術をしない道もある。まだ手術で取りきれる段階というどちらかというと前向き(と言うべきか能天気と言うべきか)な認識をもって「当然手術でしょ」と思う。手術を選択するとして、術前に抗がん剤治療をする標準治療と術前に放射線と抗がん薬を組み合わせた治療をする治療法の2つが提示された。後者が臨床試験になる。

面談表と書かれた用紙にそれぞれの場合のスケジュールと副作用の種類、対処法、起こる確率を細かに書きながら説明してくださる。違う点は放射線を併用した場合それによる副作用が発現するということか。抗がん薬治療は入院して点滴、放射線は同時に進行し退院後は毎日通院するという。しかし、抗がん薬「5-FU」を4日間とか5日間とか「シスプラチン」を2時間や、放射線41.4グレイを23回でといわれても、やったことないものは想像すらできない。実感がわかないというやつだ。いわんや人の痛みをや。指の先を落とした人の見た目は滑稽な痛みは本当のところわからない。

結局、私自身の判断の基準は予後(よご)がどうなのかというところになるのだろうか。(続く)

5-FU=一般名フルオロウラシル シスプラチン=商品名ブリプラチン、ランダ

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