「イナンナの冥界下り」 第3回

編集●「がんサポート」編集部
発行:2016年10月
更新:2020年2月


久しぶりに腸が動き出してちょっと痛い

ICU滞在4日間を以って、無事に術後管理病棟に移る。ICUでは夜中に看護師さんの出入りの慌ただしい時もあったし、順調だったのか、心配な事態があったのかは私にはわからなかった。

病棟まで歩いて移動できるだろうか、と心配だったが車椅子での移動だった。振り返ったICU室の真ん中に置かれたリクライニングのベッドはすこぶる大きくて王様の寝室のようだった。

「お水をほんの少し、一口飲んでください」身支度や歩行など日々の行動のハードルが上がっていく中、術後1週間目の朝、お水を一口飲んだ。ICUでは喉がとても乾いて、ごくごくお水を飲みたい時があったが、唾を飲み込むことも上手くできず、もうお水も満足に飲めなくなるのかもしれないなどと、根拠のない心配すらしていた。それからH先生に付き添われ吻合部の造影にレントゲン室まで歩いて行く。

大きな水槽のようなガラスの向こうでドクターGとM食道外科長がモニターを見つめる。にが~い造影剤だった。特に何も起こらず撮影会は終了、山を越えたのかな。病室へ戻るエレベーター前、造影剤が入ったからか久しぶりに腸が動き出してちょっと痛い。

「H先生、お腹がちょっと痛い」「造影剤が入ったからお腹が動いてね」正解。水も飲めるようになり、看護師さんから食事について、例によって「食道全摘の手術を受け、食事が始まるかたへ」の注意書きをもとに説明を受ける。胃の機能が低下しているので、食後のダンピング症状(動悸、発汗、下痢)が起きやすいのと、誤嚥(ごえん)を予防するため1回の食事に最低30分はかける、食事は1日5回に分けて少量ずつ。朝昼夜といきなり3食は5分粥から、おやつにプリンやヨーグルトだった。食べたものが逆流しやすいので食後は横にならず座位で安静にする。横になって休む時はいつも上半身を20cmほど高く保つ。注意書きはA4・3ページだったが、実行するのは至難の技だった。

口から薬も摂れるようになったので、その夜で点滴の痛み止めが終了となる。と痛みはどうなるんだろうと少し気になっていると、足に異変が起きる。足がイライラして寝付けない。う~んと伸びをするがまたイライラした感じになって眠れない。看護師さんに睡眠導入剤をもらい、安定剤を追加してもらい「諦めて朝まで起きていますか」と言われ、私は諦めて少しうとうとする。夜中、病棟には眠れずにずっと歩き続ける患者さんに、ずっと付き添う看護師さんがいらっしゃった。

くどいようだが私は心配性

翌朝H先生が「あれは不安症状の1つですので、後で精神科の先生に来ていただきます。あまり心配はしていませんが、お話を聞いてもらってください」くどいようだが私は心配性だ。痛み止めが変わることが不安だった。その日、病室が変更されていた。同室の方のためにトイレを常に空けておく体制で、私は離れた場所のトイレを利用することになっていた。実は私は方向音痴で、怖がりだ。その夜、離れたトイレに行って廊下で迷い、隣の病棟へ行ってしまった。また夜中に迷ったらどうしよう。明日から食事が始まれば食後すぐにトイレに行きたくなる。間に合わなかったらどうしよう。そういう小さな心配事が身体に出てしまったのだろうか。お願いするまでもなくトイレ付きの部屋に移動になった。午後にはカウンセラーの方と面談があった。精神腫瘍科という科があることは外来で通院していた時から知ってはいたが、具体的な知識もなく、どういう腫瘍なんだろうという浅はかな疑問を持つ程度で、自分が長くお世話になるとは思いもよらなかった。

食事は薬と思って食べたが、食欲自体がないし、長時間咀嚼することにも慣れていないし、……苦行だった。とにかく食べて回復しないことには退院もできないし、先生には「これだけ食べられれば良いですよ」と言われ、頑張る。スケジュール表にある、予定通りにいけば退院となっている日を目標に、この日に退院できるとして「あと何回の食事」と指折り数えた。一生、食事は続くのに。抜糸をし、点滴も外れて、シャワーを浴びられるようになり、指折り数えた通り、1月28日、術後2週間目で「退院療養計画書」と「食道の手術を受けられた方のお食事について」を携えて退院した。退院の朝「これからは頼る先生がいない」と不安を訴えるが「皆さんそうですよ」と笑われてしまう。私が頼って止まなかった病棟の先生方は、お休みの日も「午前中は中央区界隈にいますので私が対応します」とお互いに調整していらしたのを気弱な患者はドアの隙間から密かに聞いていた。

「少し気分を底上げしましょう」

2月15日退院後初めてのG先生外来。残っていた抜糸をする。この2週間余り、発熱も特段の痛みも変調もなく、恐る恐る過ごした。食べた物を戻してしまうことなどもなかったが、退院時より少し体重が減ってしまった。予想されていたことだったので、ここからがスタートみたいな感じだ。「体重は?」「32kgになっちゃいました」「病気になる前は40㎏だから、だいたい2割減って、食道の手術をすると皆さんこのくらい減ります。平均的なところですよ。でも、痩せすぎだね」「はい、小学校5年の時より少ないです」60kgが48kgになるなら理想的なダイエットだが、スタートが不利だった。

午後は精神腫瘍科の受診。カウンセラーのJ先生に1時間ほど話を聞いていただいた。その後O先生の診察で、カウンセリングの内容から「少し気分を底上げしましょう」ということで新しい抗うつ薬が処方された。慣れるまで吐き気などの副作用が出るのでまず1日1錠ずつ。2週間後にカウンセリングと再診。

「朝、目が覚めて、なかなか起き上がれなくて、今日もまた食事をしないといけないんだと考えてしまい、涙が出ます。食べたくないのに噛んで飲み込んで、休んでまた食べて。もし、再発して苦しい思いをするんだったら、このまま、食べずに餓死したほうがいいなぁと思います。食道炎が痛くてお水も飲めなかったときは、死んじゃうからって必死で飲んだのに」「身体と心はいつも同じ状態ではないんですね。あの時は、身体がぎりぎりでも気持ちの方が上回っていて、今は気持ちの方が落ち込んでいるんじゃないかしら。薬で楽になることもありますから、心が折れないようにね」という訳で、2錠に増量。増量したことによる副作用は数日続き、元々食べたくないのに吐き気のダブルパンチ、でも先生の言いつけはきちんと守る体重は小学5年生。

人間の脳は自分の身体の物理的な変化をどうやって認識するのだろう。例えば、あったはずの臓器が急になくなった時に、そのことをどう理解して指令を発するのだろう。私の脳はちょっと混乱しているのかもしれない。焼かれて爛れて痛い思いをしたのに、目が覚めたら胃が伸びて取って代わった私の食道事情が理解できていないのだろう。腸は胃を素通りして急に流れ込んだ未消化の食物に驚いて下痢をしたり、急激な血糖値の上昇で動悸がしたりする。食道がなくなったからと言ってすべてのパーツが瞬時にそれに対応して動き出すなど出来るはずがない。特に私のように心配性で、石橋をたたいて、壊れるまでたたいてしまうような性格の人間は、身体も順応するのにきっと時間がかかる。痩せた身体の車幅だって便座にハマってその程度を知らされる有様だし。

2011年3月11日、東日本大震災

発生時、家族は全員工房にいた。工房は千葉県の北東部、九十九里海岸から3km半に位置する田んぼに囲まれた場所。幸い津波はなく建物などの大きな被害もなく、家族がそろっていたこともあり落ち着いていられた。発生時から翌日まで停電が続き、情報源はラジオだったが、電気の復旧後テレビの映像で地震と津波の被害の重大さを知った。たくさんの方が命を落とされ、その捜索すらままならない。人が置かれてはいけない状況が広がる。来るはずだった明日を、未来を一瞬にして奪われた無念はいかばかりだろうか。津波に流された幼子の亡骸の泥を落としてあげ、口の中の泥を、歯磨きをしてあげるように掻きだして綺麗にしてあげている母親の様子を伝える女性リポーターの声を聞く。その子は健康で大きくなるに違いなかったのに、病気になって治療法を選ぶことさえできない。病床の人もあっただろう、生きるための治療に耐えていたかもしれない。私の治療に関わってくださった先生や看護師さんの顔が浮かぶ、かけていただいた言葉を思い出す。自分が今、生きてあること、たくさんの方たちのおかげで生きていることの重さを思い知る。

次の精神科受診は3月15日の予定だったが、ガソリン入手が難しいのと外房線が不通のため、通院は断念する。3月29日、退院からほぼ2カ月後の診察は外科と精神科、地下鉄と徒歩で行く。外科G先生には努めて元気に「食べられないんです」と訴える。4月の内視鏡検査の予約を入れ「狭窄があればブジーという処置をします、狭窄があるかもね」精神腫瘍科では泣き言を聞いていただく。「狭窄があったらブジーして、また、状態が悪くなったら処置をして、ずっと繰り返しなんじゃないかと不安です。始めた薬が切れてしまっていたので、飲み始めて副作用が酷くでるとまた食べられない」どこまでもへなちょこな私。

幸い狭窄はなく、次のCT検査から4カ月ごとになる。同時にして受診していた精神腫瘍科は毎月カウンセリングを続けることになる。

排水口にたまる抜け毛にへこんだ

6月のCT検査の前に、約8カ月ぶりに行きつけの美容院へ行った。気分的には4割くらい抜けた脱毛も少し前に落ち着き、つんつんした赤ちゃんのような毛が数cm伸びてきて来ている。生えかわったので癖になっていた分け目が消えていた。全部抜けたわけではないが、吐き気や痛みがひどい時にお風呂の排水口にたまる抜け毛には、へこんだ。手術後まで抜け続けていたので、吐き気+痛み+抜け毛、手術+抜け毛、1人時間差で攻撃された感じだ。病院内にも美容室があって同室の方は利用していたが、私は気持ちがついて行かなかった。

すっきりして6月の外来は赤い色の上着を羽織って行った、分かりやすい性格。その少し後、調子こいていたわけではないが、帯状疱疹になる。何年か前にかかったことがあり、気付くのが早かったので、大事にはならなかった。地元の長生病院皮膚科を受診した。お誂え向きの病院名だが「ながいき」ではなく「ちょうせい」。体力低下を見透かされ、入院を勧められたがもちろんお断りした。(続く)

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