「イナンナの冥界下り」 第7回
そこに元気な日常があると何故か少しほっとする
手術当日は執刀医K先生の朝飯前ならぬ出張前の9時開始に合わせて身支度をし、看護師さんに付き添われ、歩いて手術室前に到着したのが8時45分。
フルネーム、血液型、手術の内容など確認をしていると突然Z先生が空手の礼のポーズをとられた。視線の先には食道外科G先生が手術用スクラブを着て例の調子(ってどんな?)で歩いてこられるではないか。
今日は木曜日、G先生の手術日ではあるが中央病院には17の手術室がある。この場所このタイミング、なんという奇跡の出会い!
「先生!歩けるようになったら外来に伺いますっ」とご挨拶する。
「すぐに歩けるようになるよ~」といつも通り。してないつもりだった緊張がほぐれる。そうかGとZは空手仲間なのか。「K先生が知らせてくださってね」と偶然ではない種明かしをして、おそらくは10時間以上にもおよぶだろう食道外科の患者さんが待つ手術室へと飄々と向かわれたG先生、獅子座生まれ。スタッフをお待たせした私は直ちに持ち場に戻って確認事項を済ませ、手術室に入る。
「肩甲骨に保護テープ貼りますね」何しろ骨ばってます。腕に点滴の針が入り「眠くなりますよ」でコテっと眠ってしまう。
「遠山さん、麻酔が覚めてますよ」と私が声を掛けられて一瞬目を覚ました丁度その頃、「遠山美和子さまのご家族の方~」と館内放送で呼び出しを食らっていた連れ合い。手術中は家族が連絡用のPHSを持って、院内で常に連絡が取れる体制で待機する。家族待合室があり、じっと待つご家族や、レストランで食事をしたりお茶を飲んだり、過ごし方は様々だが、つらい象の時間だ。手術が終わるとすぐに執刀医の先生から直接PHSに連絡が入り、手術結果の説明がある。連れ合いはチョットした手違いか筋金入りの粗忽ものか、K先生からの電話を取り損ねたらしい。
手術は予定より短く約2時間で終了、センチネルリンパ節は生検のみで転移はなかった。その後リカバリー室で回復を待ったのち元の病室に戻る。リカバリー室に少し長居をしたようだが無事生還。
なんと言っても手術直後だし、手足は動かせる程度で重病感は否めないが、「目覚めたら製作途中のフランケンシュタイン」だった食道の術後と比べると格段に身体は楽だった。足の血栓予防のためのエアポンプ式マッサージ機が夜通し作動している。エアポンプの規則的な音がなんとなく足元で小さいおっさんが軽くいびきをかいて添い寝しているように聞こえて、そのうちおっさんのいびきにしか聞こえなくなり、ひとり笑い。
翌朝にはおっさんともお別れし、点滴も取れて、歩行訓練をし、導尿が取れ、パジャマに着替えて、昼からは普通食が出た。病室は15階4人部屋の窓側、眼下にはどうなるんだ築地市場が一望できる。夜になれば5,400円(税込み)の夜景。朝方3時に目が覚めてふと不安になっても���市場はもう明かりがついて多くの人が働き、そこには元気な日常があると思うと、何故か少しほっとする。
なんでも聞いてみるもんだ
同室の方たちも最初は皆さんカーテンを閉めて、それとなく様子をうかがうような雰囲気だったが、付き添いの方とご挨拶したのをきっかけに、少しずつカーテンが開き自己紹介し、すぐに打ち解けてしまった。3人とも乳がんの患者さんばかりで、それぞれ病状や深刻度は違うだろうが、それは「こっち」へ置いといて、今困っていることや、「こうするといいわよ」から、ついに私の食道手術自慢が始まると、なんとなくみな楽勝気分になって、果ては「修学旅行みたいね」になった。
「あなたはいいわ、年配の先生が何人も来てくれて」これは私のこと。病棟担当Z先生も意外に年長組、食道外科G先生、精神科O先生が様子を見に来てくださったりで。
「えぇ~、Kさんの方がうらやましいですよ、イケメンパラダイスじゃないですか」
Kさんの病棟担当は様子の良い若い先生で、何人かに囲まれて傷の処置をしてもらったりしている。
「私、若い先生は嫌、ベテランの先生の方がいい」
「Mさん担当のJ先生の靴、絶対イタリア製ですよね、休みに髪型変えたしオシャンティーなのよ」
がんセンターの医師といえども人の子、歳も取るし、床屋へも行く。
乳腺外科の朝は早い。8時前には病棟担当の先生が傷の様子を見て処置を済ませる。10分過ぎには科長先生はじめ全員での回診があり、8時半には外来が始まる。毎日何件かの手術があって、夕方には病室の様子を見にこられる。まだ仕事は残っているだろうに、Z先生は私の長話に付き合ってくださって、「空手は昔やっていたんです、でも流派はG先生とは違うんですが」
「G先生がZ先生は体が大きいから強いよ、っておっしゃってましたよ」
「いやぁ現役にはかないませんよ」
「Mさんは麻酔の影響か夜通し嘔吐で苦しかったそうですが、私は全然へっちゃらでした」「麻酔のかかっていた時間も違いますが、人工呼吸器に移行する前に手作業で調整する部分があって、ベテランの先生がとても丁寧にやってくださったからかもしれません」
なんでも聞いてみるもんだ。口数多しも捨てたものじゃない。術後麻酔科の先生が様子を見に来てくださる。「おかげ様で吐き気も全然なくて、ありがとうございました」
左胸の傷は肩口から袈裟懸けに一太刀、バッサリやられたような傷だ。ドレーンが2本入っている。私は手術が軽かったせいか、もともと体が干からびているからかドレーンからの浸出液も少なめで、「早く抜けたら早く退院できますか?」と直訴したが、K先生には「予定通りにいこうね。退院までに体重少し増やそうか」と優しく却下されてしまった。
看護師さん曰く「骨と皮の間にドレーンが浮いて見えて、これは痛いですよね」
「そうなんです、それと切ったほうは皮を摘まんだので弛んだ皮がなくなったんですけど、無傷のほうは痩せて皮が弛んでるので、ここもすっきり取っていただけると良かったんですけど」
「あ~此処そういうのはやってないんですよ」ナースのナイスレシーブ。(続く)