「イナンナの冥界下り」 第9回
なのに私は病院が好きだ
「白衣高血圧」という言葉があるが、看護師さんやお医者さんが苦手、病院が大嫌いという話をよく聞く。なのに私は病院が好きだ。先生は私を助けることに心血を注いでくださる。その先生を見つめる私の目に星は煌めき、瞳孔はハート型に開く。
私は5歳の時、急性腎炎で1カ月ほど入院した。そのときはいっぱしの子供のつもりだったが、今思えば5歳はまだまだ幼い。食欲がなくお弁当時間のつらい幼稚園生活がしばらく続き、「お弁当のおかずが紙でも食べられる」と母に言った。
体もつらく幼稚園を辞めたかった。嘔吐をきっかけに小児科を受診し、その日そのまま入院した。入院によって地獄の幼稚園生活から逃れられ、主治医の丸山先生は私の白衣の王子様になった。
毎日の採血で血管は固くなり腕にはもう刺せるところがなく足や手の甲から採ったが、幼稚園へ戻ることより、泣かないで先生や看護婦さんに褒められることを望んだ。
翌日採血を済ませて、人影も疎らになってきた食道外科外来にチェックインしたのは午後3時。ほどなく採血結果を待たずに取りあえずCT室に行くことを指示される。検査を終えて待合室で待っていると、いつもと変わらないG先生がやってくる。空いている診察室を拝借して、できたてのCT画像、採血結果を前にG先生、看護師さん、患者の私。
「腸はイレウス状態だね、食道は問題ないし、なんだろう。K先生(乳腺外科)に電話してみようか」
「去年僕がお願いして乳がん摘出手術していただいた遠山さん、50代の」
「そこは60代でいいです」
「本人は至って元気なんですけど」
「いや、これはキャラですから、凹んでます」と相変わらず脇からうるさい患者。
「K先生は、乳腺はないって、もう治ったも同然みたいにおっしゃってるよ」
「そうですか、何が悪いんでしょう」
「お腹見せて、あ~腹水だね」
ぽんぽん『人のお腹で遊ばない!』とここは心の中で。
「入院する?」そんな大ごとなの?
「何も準備してきてないし」
「次はS先生に相談してみよう。S先生ちょっと見ていただきたいCTがあるんですが」
少しやり取りがあって電話を切る。
「明日、9時頃来られる?」
「はい、今日は東京に泊まります」
「じゃあ、明日9時に婦人科のS先生が見てくださるので、食事しないで来て。外来に出ていない日なので別の先生の名前で予約が入るけど」
そういう裏技があるんだ。
「今夜からは大建中湯2包ずつ飲んでおいて、院内薬局ですぐ出すから」そして「婦人科っぽいね」と。
今思えばこの時のS先生とのやり取りで、G先生は病状をすでに了解されていたと思う。ディスプレイの腫瘍マーカーCA125は3315の赤字だったし。
でも「ぽいね」という言葉で心配性の私を思いやってくださった。ありがとうございます、ほんとに感謝し��もしきれない。そして、こんなキャラの私は「先生も婦人科のこと、もっと勉強しなくちゃ」などと減らず口を叩き、「僕の患者さんは70代以上の男性が多いからなぁ」と返してくれる先生。
お医者さまが大の苦手の方がいたら、この際気持ちを切り替えて、ハートの眼(まなこ)で先生を見つめてみるのはどうだろう。きっと手厚いドクタービームが返ってくる。
その夜、連れ合いに電話であらましを報告する。
「卵巣がんのステージⅢだと思います」

9時15分前、女医先生の名札が掛かる診察室のドアが開いて、男性のS先生が「遠山さんどうぞ」と直接招き入れてくださった。担当先生の診察開始前に一通りの検査をしてくださるとのこと。
急いで例のグワーンとせり上がる婦人科診察台に座り、内診、超音波検査、組織採取。
「ごめんなさい、ちょっと痛いですね、もう1カ所取って検査に出しますので」と言いながら看護師さんに「麻酔はいりません」
痛かったので時間がかかった気もするが、程なく終了。身支度をして改めて先生の脇の椅子に座る。
「バタバタして自己紹介が後になってしまいました。Sと申します」
ご丁寧に恐れ入ります。
「遠山です、急にご無理を申し上げてすみません、よろしくお願いいたします」
「卵巣がんだと思います。すぐ手術しましょう」
「ステージは?」
「腹水が溜まっているのはすでに腹膜播種(ふくまくはしゅ)を来たしているからで、この場合ステージⅢです」
「そうですか」としかリアクションできない。ほとんど感情が動かなかった。思考停止してしまったと言うより『どうすりゃ気が済むんだ、また別のやつがステージⅢかよ』事の重大さより、呆れた気持ちが先行。
私の人生、病気を隠れ蓑にしないとやっていけないほど悲惨なものだったのか、あるいは遺伝子レベルでミュンヒハウゼン症候群なのか。いずれにしても、こうなってはジェントルマンのS先生にお任せしようと思う。
私も目指そう プロのがん患者
「他の部位のがんが原因ではないか消去していかないといけないので、いくつか検査をします」
上部消化管は5月に内視鏡をやっているので省略、下部内視鏡(大腸検査)、右胸の超音波検査、MRI検査、麻酔科術前回診の予約を手早く入れてくださる。
「今日もいくつか検査がありますので説明は看護師さんから聞いてください」
例の手術入院セットだ。3回目になるがセット割引料金適用はないらしい。
まず、最初のミッションは院内の歯科へ、これは今回が初めて。口腔内の状態が悪いと術後肺炎の引き金になったりするので、入院前に歯科を受診しておくよう指示される。自宅近くの連携歯科医院に紹介状を書いてくれた。
次に胸部腹部X線。肺機能検査と心電図、入院予約とお薬手帳の確認で今日のミッションは完了だ。肺機能検査と心電図は同じフロアで行われる。3度目ともなると、このフロアでこの検査を受ける方はこれから手術入院が待っているんだとわかる。左乳房を切除してから初めての心電図検査、機器先端のゴムのぷにゅぷにゅで挟む胸のとっかかりが、あばら骨にへばり付いた皮だけだ。若い女性技師さんに聞いてみた。
「お若いから洗濯板なんて知らないよね」
「いえ知ってます、それに、ここはたくさん患者さんが見えますから」
アピアランス相談室がある病院だ、様々な外見の悩みを抱える患者さんも多いだろう。その患者さんたちを平常心で受け止め、粛々と仕事する若い技師さんや看護師さんたち。当然ながらプロフェッショナルだなぁと改めて感心する。
そうだ、私も目指そうプロのがん患者、3度目だもの、プロ意識を持って治療に臨もうと思う。プロフェッショナル・患者の流儀。ちょっと素敵、プロ患者。(続く)