「イナンナの冥界下り」 第10回
治療の説明・同意書に「腹水戦士」の文字が……
腹水穿刺(ふくすいせんし)の説明を受け、同意書にサインをするの段。
がん研究センターでは全ての検査・治療に同意書の提出が求められるシステムだ。
G先生は「お役所なんでね」とおっしゃっていたが、同じ検査でも、何度でも何度でも同意書が必要である。プリンターから打ち出された初めての治療の説明・同意書には「腹水戦士」の文字。
「あっ、誤字ですね」とすぐに手書きで〝穿刺〟と訂正する、その真の姿は勇ましい腹水戦士のH女医。おそらくお腹に針を刺す時は、「キャンサーレッド」の声と共に白衣からレンジャー仕様の真っ赤なスクラブ姿に変身するに違いない。
さすが先生だ、調べなくても穿刺ってすぐ書けるんだ。同意書に引き戻される私。

ベッドに仰向けになり消毒、局所麻酔をして針を刺す。水の流れる音もするので、少しずつ腹水が抜けているのだとわかる。
天井を見ながら思う。
「ステージⅢで腹膜播種(ふくまくはしゅ)していて、腹水がどんどん溜まって手術前に抜くような事態になってしまったけれど、がんセンターの診察室で『腹水戦士』に出会えるなんて、そうそう出くわす事態ではないぞ。なんて運がいいんだ」
十数分も時間がたったろうか、排水音が滞った感じだ。
若干横向きに体位を変えるよう指示され、また少し流れている。お腹を押したりの力を加えることはせず、流れに身を任せておよそ30分ほどかかって1.6ℓの腹水が抜けた。
お腹は半分も凹んでいない感じだが、大分身軽になった気はする。
だがしかし、1.6㎏ではまだ未熟児だ。腹水は細胞診に出された。
帰宅してトイレに入る。身体が変だぞ。内股のあらぬところにぶよ~んと水が溜まって垂れ下がっている。自然に任せたとはいっても針を刺して抜いたことで体の水分バランスが崩れたのだろうか、自分の身体ながらなんとも気味悪い。それも大人しく横になっていると次第に吸収されたらしく小さくなって、明日は電車で検査に行けそうだ。
私は恵まれている医者長者だ
午前9時半、MRI予約の15分前にはスタンバイして説明を受け、順番を待つ。大きなヘッドホンと大音量は同じだが、乳腺と違って腹部は仰向けなので楽である。
大音量はオノマトペ(擬声語を意味するフランス語)に聞こえてしまうと煩わしいが、ただの雑音にしか聞こえない間、スーっと睡魔に襲われた。
今週は苦しいやら心配やらで、熟睡できていなかった。次は11時と14時に超音波検査が控えている。
まず下肢エコーで動脈瘤の有無を調べる。下肢の検査が終わると女性技師の方が「午後予約の乳腺エコーを、このまま続けてできるかどうか調整してみます」と、更衣室で待つように言われた。そんな融通が利くんだろうかといぶかっていたが、あに図らんや、検査着を乳腺用に替えて続行してくださった。
がん研究センター中央病院は大病院だしお役所的で、予約時間や書類などの決め事にシビアだと思うが、患者さんは随所でいつも温かい血の通ったスタッフから手厚いケアを受けていると私は実感する。
昼過ぎ、病院ロビーで休んでいると携帯に病院から電話が入った。
(私はここですよ)とつぶやきながら出ると、入院日確定の連絡だった。入院は14日水曜日に決定。
が、手術が1週間早まったことでまだクリアできていない課題を思い出した。歯医者さんに行っていない! 即、病院から紹介された歯科に電話する。
「来週火曜日は午前午後診察、金曜日に手術なので水曜日入院でなんです。今日がダメなら何とか月曜日にお願いします」と頼み込む、いや頼み込まなかったけれど、多分無理して、快く引き受けてくれた。歯科診察では歯の状態はよいとのことで軽くクリーニング。機会があったら古い治療痕を直したほうがよいとアドバイスされる。
ついでに酸が沁みると相談すると、症状にあった歯磨きと歯ブラシをプレゼントしてくれた。そして手術当日は入念に歯磨きすること、細菌がいっぱいの舌苔(ぜったい)の掃除も必ずしてくださいと掃除用ガーゼを沢山おまけしてくれた。
元気になったらまた来ようと思う。良い歯医者さんに巡り会った。しんどいことも色々あるけど私は恵まれてる、医者長者だ。
楽しい入院生活になりそうな予感
翌日、S先生の診察。
歯科からのお手紙を渡し、「腹水を抜いてだいぶ楽になりました」とお礼を言う。
「早く手術できるようになってよかったです。このままだとまたどんどん腹水が溜まってきますから。子宮・卵巣卵管、生検によってはリンパ節を切除します。それと大網という膜状のものも転移しやすいので」
「最寄り駅は、外房線の大網(おおあみ)です」
「その大網です。手術して治療をすれば食欲も回復して食べられるようになりますよ」
すでに未使用の臓器を切除するのだから、術後の生活への影響は少ないような気がする。
でも「『食べられるようになりますよ』で『治ります』とはおっしゃらないんだ」と思う。私もこれまでいろいろあったし、偽りの優しさなんていらない(笑)。
午後は、精神腫瘍科の面談と診察。
怒涛(どとう)の1週間の腹水戦士改め腹水穿刺の件やら明日入院の報告。病棟にも出向いてくださるとの話で、減らず口のくせにスーパーミラクル心配性の私は心強い思い。
2016年9月14日、がん研究センター中央病院へ5度目の入院。
入院生活が概ね予測できるようになり、荷物は少なくはないが無駄はないと思う。
術後は回復状況に応じて何度か病室を移動すると思われるので、必要なもののみ鞄から出しておく作戦。挨拶に来られた病棟担当医はレジデントのT先生。私の「まあまあイケメン」の失礼な査定に嫌な顔もされず、感度良好。
初日の担当看護師は「未来」と書いて「みき」と読む若い看護師さん。患者さんの間ではみきちゃん担当の日はラッキーらしい、なんたって未来が開ける。楽しい入院生活になりそうな予感、きっと楽しいぞ、たぶん楽しい、だといいな。(続く)