「イナンナの冥界下り」 第11回

編集●「がんサポート」編集部
発行:2017年6月
更新:2020年2月


スマホの検索画面に「全身脱毛必発」の文字が

飲水開始から流動食、5分粥と食事も進んでいったが、腸の調子はそう簡単には戻らない。

食事が始まってからの目標は下剤を使用して毎日排便があることだ。

腸がうまく定位置に収まるまでに時間がかかるのだろうか、食事はもとより、それ以前に水にしろジュースにしろ何かがお腹に入ると痛い。排便にしてもお腹のどのあたりに力を入れればいいのか、感覚が取り戻せない。

「歩いて身体を動かすとお通じが付きやすいですよ」のアドバイスで、暗示にかかりやすい私は病棟2周で第1回目の排便に成功した。

それからは言いつけを守って朝食後は若干の腹痛は我慢して、スマホを持って病棟を歩き、要所で休んではポケモンをゲットし、排便を済ませて戻るようにした。

院内にもあちこちポケモンは出没するが、歩きスマホは厳禁。だが、幸いなことに術後の2人部屋はベッド脇にもポケモンが飛び込んでくるので、ゲットしては看護師さんに成果を見ていただいた。

4日目にはドレーンが抜けてシャワー浴の許可が出た。

夕方S先生登場。

「どうですか今日は、シャワーを浴びてシャワーやかになりましたか」

「はい! すっきりしました、ありがとうございます」

今回はさらっと上手に言えている。

その後マー君先生と検討会。

「オヤジギャグなんですが、タイミングが素晴らしいんです。私のその日の処置に合わせてダジャレをぶち込んでくるんです」

「遠山さんの病室に来て、何を言うのか考えるのが楽しみみたいです」

「ありがたいです、細かな事まで気にかけていただいて。ダジャレはいまいちですが」

そんなこんなで、回復状況に合わせナースステーションから少し離れた4人部屋に移動になる。ポケモンはあまりこない部屋だが少しスペースが広い。

S先生にも椅子をどうぞと勧める。

「椅子はいっす」

「先生がダジャレをおっしゃるの、皆さん意外みたいで」

「若いころはよく言ってたんですが、このところ封印してました。実は取って置きのがあって、私長男なんですが痔なん(次男)です」

S先生、箍(タガ)が外れてキャラ炸裂だ。

「ほんとに長男で痔なんですか?」

お忙しいのに、ひとしきり患者の相手をしてくださって、笑いながら帰って行かれた。

手術から1週間が過ぎ、浮腫みは大分引いてきた。自宅での食事について栄養士さんから栄養指導があり、退院日が気になるところ、おしゃべりが大好物の患者をG先生が見舞ってくださる。

面談室でカルテを開いて術後の経過を見ながら暫し歓談の時。

「S先生からは早く抗がん薬治療を始めましょうと言われています」

「食道の時より大変だな」

「えぇっ! もっと大変なんですか? 今度は私死ぬの?(笑)」

「この薬、調べてごらん」

スマホの検索画面には『全身脱毛必発』の文字。

「今度は鼻毛の奥まで抜けるよ」

え~ん、全部抜けるんだ、でも大変なのは脱毛のことですね。痩せても枯れても女子プロ患者だから早く教えていただいて良かった、覚悟ってものができる。

G先生、その日はお知り合いと会食とかで雑談を切り上げた。

「会食には私は何を着ていけばいいですか?」

「そのままでいいで~す」

「は~い」と病室に戻るレンタルパジャマ姿の私。

本当にずっと居たいほどだ

金曜日は手術日で、多分とてもお疲れなのにS先生が立ち寄ってくださる。

退院の予定についてお尋ねすると、ナースステーションへ行ってすぐに戻ってこられ、「『遠山さんが、居心地が良いのでずっと居るつもりらしい』と看護師長に言ったら、『月曜に出て行ってもらいますっ』って。月曜、退院に決まりました」

退院前の内診は、月曜日朝8時半から外来で見ていただくことになった。

退院日の朝、診察があるため朝食は後でゆっくりとろうと思い、食堂でパンをトーストしてプラプラ病室に戻る途中、廊下でマー君先生と遭遇。

週明けから病理担当に異動になったはずだが、「ちょっと時間の余裕があったので」と顔を見に来てくださった。わざわざお別れに、ありがとうございます。本当にずっと居たいほどだ。

病棟がある15階から1階に降りて婦人科診察室で内診。とくに問題なく、退院2週間後の診察についての予約や腫瘍内科受診の指示をいただく。そんな時でも私はといえば1週間後に控えた落語会に外出してよいかの打診に精を出し、その辺りをうろつく程度ならと許可をいただく。

その後病棟に戻って、S先生と、迎えに来た連れ合いと三者面談。

手術内容についての補足説明をしていただいた。

がんは左卵管部分、ステージはⅢC。当初の予定通り子宮全摘・両卵巣卵管の切除、リンパ節の郭清は行わず、大網は既に食道切除の際にかなりの部分が摘出されていたので、残っていたものを切除。

それに加え、腹膜内に播種(はしゅ)していたがんのうち、盲腸に転移して約2㎝大になっていたものを切除。

腹膜内播種は取り切れないし、大きいもので約2㎝の残存がひとつあり、これもやはり食道切除に伴う胃管形成でメスを入れた部分で、手を付けられなかったとの説明だった。残存もあり、「早く化学療法を始めましょう」との見解だった。特別に、手術で摘出した患部のカラー写真を5枚もお土産にいただいて、ご機嫌なような、深刻なような。

お腹も痛かったし、便秘も腸閉塞も心配だった。食事もすいすい食べられた訳ではなかったが、笑ってばかりいた、楽しい事ばかりだったみたいな気がする入院生活だった。

冗談好きで、調子に乗った患者に合わせてくださった寛大な先生方やスタッフの皆さまに深謝。

来るべき全面戦争に備えて

入院の朝34.7㎏だった体重は、なんだかんだで退院の朝32.6㎏になっていた。次回の診察まではシャワーのみ、食事は柔らかいものを腹八分目で便秘にはくれぐれも注意、膀胱の位置も変わっているので排尿障害の出る可能性もあるとのこと。下腹部はまだ膨らんでいるし、病院を離れると急に病人風が吹いてきて心配になる。

それでも10月3日の落語会は予定通りに出かけ完走した。〝腹水戦士〟の決戦前夜と比べれば身体的には楽だったし、これから未知の領域「ゼンシンダツモウヒッパツ」治療が待っている。病人風に吹かれて黄昏(たそがれ)ている場合じゃない。

翌日は病院のアピアランスセンターで行われるコスメティック講座に参加。

先に乳がんのAC療法をし、すでに脱毛などの副作用を経験したMさんからの情報の通り、センター内のウィッグ(男性用もあり)は試着し放題。なんでも親身になって相談に乗っていただけてとても心強い。

TC療法の場合、早ければ2週間ほどで頭部脱毛が始まるとのことなので、翌週の診察ですぐ治療をスタートしたら、早めにかつらの準備もしておかねば。なにせ心配性のせっかちだから居ても立ってもいられない。

センターの試着で「今の髪型より似合ってるわよ」と言ってもらったかつらに目星をつけてメーカーと品番を控える。ウィッグはおしゃれ用と医療用で仕様に大きな差があるわけではなく、とくに医療用と銘打ったものにこだわることはないようだ。

その翌日、眼科診察の後、取り扱っている日比谷の店舗に行って購入した。いきなりウィッグ店に行っても、値段も、品質も何も勝手がわからなし、試着を申し出るのすら憚られると思うが、気軽に行かれたのは下準備のお陰だった。因みに治療による脱毛などのため医療用にウィッグを求めに来る人を、かつら業界では『メディカルの方』と呼ぶらしい。退院して10日経ち、あちこち出歩いたり、元気に動けている気もするが、下腹部は不気味に若干の膨らみを見せている。腹膜内には直径2㎝の残存と幾多のせん滅すべきがん細胞どもが蠢(うごめ)いているに違いない。来るべき全面戦争に備えて、ただ今、絶賛心の準備中――。(続く)

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