「イナンナの冥界下り」 第13回
G先生がいなくなるなんて 私は大丈夫だろうか
12月12日は久しぶりの落語会。友人に演芸場のトイレでマルガリータを披露する。噺家さんはひとりで侍からおかみさんから与太郎まで演じ分けるからか、丸刈り頭がけっこう多い。
志ん朝、小三治、一之輔、白酒と名だたる噺家はみんな坊主頭。私もその仲間入りで嬉しような、「実にどうもお恥ずかしい」と円生の口調で言ってみる。
精神腫瘍科では12月13日から行動活性化療法の具体的なプログラムがスタートした。病気の不安や心配事にとらわれ生活が活動的でなくなると、その悪循環でますます落ち込んでしまう。それを断ち切ってどのような過ごし方をすればいいのか、カウンセラーのアドバイスを受けながら実践していく認知行動療法。
薬の治療とは別のアプローチで、よりQOL(生活の質)の向上を目指そうということだが、なんだか「余命宣告をされてもイキイキ元気に過ごせますように」の予行演習をしている気もして、ちょっと複雑。
その日夕方、診察時間の終わった食道外科外来へ行き、受付でG先生を呼んでもらう。
「あぁ、今日はG先生最後の外来ですものね。看護師もみんな挨拶に来てましたよ」
G先生は12月末で遠くの病院へ行ってしまう。先生の異動もあり、食道切除手術後すでに5年以上経過している私は食道外科卒業となった。
何度も命を救っていただいた恩人のG先生がいなくなるなんて、私は大丈夫だろうか。私はいつか返していただく約束で、好きな落語のCDをお渡しし、先生は私の体重が40㎏になったらサッポロのビール工場でジンギスカン食べ放題をご馳走すると約束してくださった。
くそっ、体重40㎏もビールもジンギスカン食べ放題も炭酸NG・小食頻回の私には不利な条件だ。マルガリ武闘派のプロ患者と、メスと空手で最強の名医を志す先生とのお別れは、しっかり坊主頭も褒めていただいて、例によって軽いノリだった。
こんなに一気に落ちて大丈夫か しっぺ返しされたりしないか
12月14日3クール目開始。貧血気味、好中球値が0.01足りないのをおまけしてもらい、2剤点滴。血液検査では腫瘍マーカーの数字も出ていた。
がんセンターのCA125基準値上限は35U/mlとされているが、婦人科初診時3,315、入院時3,373。手術後TC療法開始時でも1,021の高い値だった。
これが約2カ月かけて2クールを終了した時点で16にまで下がっていた。こんなに一気に落ちて大丈夫か、恨みをかって後でしっぺ返しされたりしないだろうか。
翌週21日3クール2回目。白血球、好中球ともクリアできたが貧血がひどくなっているので次週輸血をすることになる。そう言えばこのところ駅の階段を上るのも一苦労で、何度も休まないとホームまでたどり着けない。
「昨日ポケモンを探して2時間近く公園を歩き回って疲れました」と話すと「ポケモンも大事だけど、普段の半分くらいの血で生活しているようなものだから気をつけてくださいね」と叱られた。
まるで小学生に諭すようだが、さすがまゆゆ先生。「ポケモンも大事だけど」と言ってくれた「ポケモンなんか」と言われたら子供はカチンときて勉強する気をなくす。まゆゆ先生の語彙(ごい)はいつもとても吟味されていて、誤解を招きかねない発言などはない。
永久(A級)じゃないのでB級
翌週火曜日に血液検査の後400ml輸血をする。婦人科手術中にも400mlを2袋輸血したが正気の状態での輸血は初めてで、ボトルの中の血液そのままの色が印象的だった。できるものなら様子の良い若人の新鮮な血液、プリーズだ。
看護師さんに「若い頃は何回も献血してバッチを貰ったんですよ」と自慢すると、「じゃぁその時の恩返しをしてもらってるんですね」。そうか、これは身から出た錆(さび)、じゃなくて、情けは人の為ならずか、血は鉄の味がするけど。

精神科プログラムを受け、夜は渋谷の能楽堂で「イナンナの冥界下り」鑑賞の強行軍を無事貫徹。ただ体調的には泣きが入る。疲れた、早く横になりたい。
12月28日仕事納めの日、3クール目ラスト、今日で〝ドースンデス〟TC療法は折り返しを迎える。寒くなってきてからは防寒も兼ねかつらを被ってその上にベレー帽なんかを載せて通院していた。
点滴中ベッドでうとうとしている間にヅラがズレてはみっともないと思い、いつも休む時用の帽子を持参していたが、血の巡りが悪かったか、疲れが出たか、うっかり忘れてしまった。
マルガリ頭で看護師さんに「B級脱毛始まって、刈っちゃったんですよ」と言うと、「B級?」と問われ「えぇ、永久(A級)じゃないのでB級」
「ふっ、短くする方多いですから気にしなくて大丈夫ですよ」とフォローされ、「ありがとう」と言いながら『でも私、あんまり気にしてなくて』と心中つぶやく。
それより、ふと出た「B級脱毛」表現、我ながらすこぶる気に入った。毎週通う中央病院は、どうなるんだ築地市場の真ん前に位置し、市場は年末の賑わいだ。
思い起こせば6年前、食道手術前の診察も年末28日、築地市場が買い物客でごったがえしていた時だった。一体誰の思し召しなんだか、とにかく、また生きて年を越す。(続く)