「凛として生きる」 第1回
お母さんには内緒だぞ
3月24日(月)
自宅で過ごした9日間、本当によく歩いた。4時間以上歩いた日もあった。
今日は、手術を受けるために入院する日である。午前10時、K病院呼吸器外科、112病棟、3号室に再入院する。今日は、採血以外は何もない。病院内の売店で手術用品を購入する。看護師の指示に従い、事前にICU(集中治療室)に預ける日本式寝巻、吸い飲みなどを袋に入れていると、「いよいよ手術だな」と緊張感が出てきて不安が少し影を潜めた感じがする。
3月29日(土)
今日は、手術が終わって3日目である。
手術当日27日は、朝、肩に注射を打たれ、ストレッチャーで手術室に移動した。手術室で名前と生年月日を聞かれたのは覚えているがあとのことは全く覚えていない。
翌28日は、ICUで1日過ごす。看護師から咳をしてしっかりと痰を出すように言われ、一生懸命咳をしてみるが、痰がうまく出ない。これが少しつらい。喉の上のほうでこんこんと軽く5~6回咳をし、そのあと少し強めに咳をして痰を出す方法を教わった。慣れてくると、比較的楽に痰を出すことが出来た。
身体に幾つか管が入っているのが煩わしいが、痛み止めが効いているのか、咳をするとき以外は、痛みはそれほど強くない。昼には柔らかいご飯が出て、ベッドの上で上半身を起こして食べることができた。
今日、29日午前中に、12階の一般病棟10号室に移ってきた。歩行練習が始まる。身体に管を付けたままで歩くのだが、病棟の廊下を1周出来た。回復しているのが実感でき、しみじみと嬉しい。
4月2日(水)
身体の管も抜け、歩行練習も楽になった。今日は病棟の中を約40分歩いた。
明日4月3日は、家内の誕生日である。病院に来た次女真央香に明日の夜7時頃、家に花束が届くよう花屋への手配を頼んだ。「お母さんには内緒だぞ」と付け加えた。娘は快く引き受けてくれた。
4月3日(木)
午前中に抜糸があり、引っ張られるような感じがしていた右胸がスッキリした。夕食後、7時半に家に電話。家内に「誕生日おめでとう」と言う。「さっき花が届いてびっくりしているの。有難う」それだけの会話だけれども、ひと時の間、当たり前の日常が戻ってきたような感覚に浸ることができた。
この無機質な空間から解放して欲しかった
4月11日(金)
今日午前中に、3号室に戻ってきた。昨日までは、個室の7号室、その前はICUに入っていた。
1週間前、4月3日の夜中、厳密には、4月4日の明け方、息苦しさで目が覚めた。尋常でない息苦しさである。4時半頃、我慢ができなくなりナースコールを押した。
意識が遠のく中で、「個室に移せ」「家族に連絡をとれ」「主治医に連絡を」こんな言葉が頭の上を行き交っていたのを覚えている。そのあとは意識が無くなった。
記憶がはっきりしているのは、4月5日朝、目が覚めてからである。ICUにいた。家内がベッドの左側に疲れた様子で座っている。右胸がすべて鉛の塊になったように重い。そして強い鈍痛がある。昨日、突発性心嚢内出血を起こし、緊急手術を受けたということである。
「抜糸したところをもう一度開きました」と言われた。突発性心嚢内出血と言うのは、心臓とそれを包んでいる心膜の間に何らかの理由で出血し、心臓の機能が低下することだそうだ。胸部の手術の場合、2ないし3%の割合で起こるとのことである。
看護師が背中を拭くため身体を横にしてくれた。軽く咳が出た。右胸というより上半身全体に激痛が走る。「咳をして痰をしっかり出しましょう」と看護師は簡単に言う。最初の手術のときに覚えた方法で痰を出そうとするが、最初の「こん」で次の「こん」が止まってしまう。「は~い、頑張りましょう」子供を諭すように言う看護師の励ましの声を聞くとかえって自分自身が情けなく思えてしまう。それでも数回必死の思いで痰を出した。
空が見えない。人の話し声がほとんど聞こえない。器材が触れ合うカチャカチャという冷たい音が聞こえる。ICUは本当に無機質な空間である。幾つもの管につながれた状態で、じっと時間の経つのを待つ。
4月6日は、朝から気持ちの落ち込みがひどかった。とにかくこの無機質な空間から解放して欲しかった。午前中の回診のとき先生に懇願した。午後になって、病棟に移ってよいとの許可が下りた。112病棟の7号室に移された。ナースステーションの目の前の個室である。K病院は、患者の希望で個室に入るのではなく、治療上必要な場合に個室に入ることになっていた。個室にいることで自分がまだ厳しい状態に置かれていることがわかった。
しかし、その後は順調に回復し、今日11日には心電図のコードが外され、身体に付けられた管、コードの類が全て取れた。生き返る心地がする。
今、床頭台の引出しに2通の書類が入っている。1通は「入院(手術)承諾書」もう1通は「輸血同意書」である。家族等氏名(同意者氏名)の欄には家内が署名し、患者氏名欄には長男哲太郎が代理で署名している。
家内の誕生日の翌日、4日の早朝、病院から連絡が入り、急きょ駆けつけ、これらの書類に署名した家族の気持ちを考えると胸が塞がる思いがする。済まない。本当に済まない。
わずかひと月の入院なのになにもかもが懐かしい
4月23日(水)
退院の準備のため、昨日は外出許可をもらい、家内と病院の近辺を散策した。外はすっかり春の様子である。通常は、術後2週間程度で退院出来るようだが、緊急手術を受けたため10日ほど入院が長くなってしまった。
今日、K病院を退院。病院の前からタクシーで帰宅。1カ月ぶりで家に帰る。眼に飛び込む家の中のもの、何もかもが懐かしい。わずかひと月の入院だったのに、もっと長い不在だったような気がする。
もうすぐ母の1周忌である。母は昨年4月、心筋梗塞で急逝した。もし生きていれば、今回の私の肺がん騒ぎがどれほど母に心配を掛けたか容易に想像することが出来る。肺がんの発見が母の亡くなった後であることがせめてもの救いである。
4月26日(土)
午後から散歩に出かける。雑木林の中を歩く。もう若葉の季節である。遊歩道の脇に置かれたベンチに横になって上を見上げると樹木の上部に新緑が広がり、その上には青い空が広がっている。息をのむ美しさである。
1カ月前に手術を目前に控え必死に歩いていたときはまだ冬の装いだった。季節は確実に巡っている。
体力の回復に努めよう
5月6日(火)
K病院受診。病理検査の結果の説明を受ける。がんの大きさは、直径約5㎝と画像での診断より大きかった。リンパ節への転移は1カ所である。
先生から抗がん薬についての説明があった。
「体力が回復しているようですので5月中頃から、抗がん薬を打ちましょう。がんが大きかったこと、リンパ節への転移があったことを考えると再発を抑える意味で、抗がん薬を使っておいたほうがよいと思います」
「抗がん薬は、*ジェムザールを使います。1回目は副作用の状況を見るため入院が必要ですが、2回目以降は通院でも可能です。全部で3回投与しますので治療は7月までかかります」
抗がん薬のことなど全く考えていなかったので驚くと同時に抗がん薬は身体に悪い影響を及ぼす怖い薬というイメージがあり、気が進まなかった。
それでも5月16日に入院することとし、帰りに1階の入院受付に寄り予約をした。
7月28日(月)
7月に入ってすぐ最後の抗がん薬の点滴を受け、治療は全て終了した。今後は経過観察を受けていくことになった。


今日は、梅の里越生へ行ってきた。報恩寺、正法禅寺、無名戦士の墓などをゆっくりと歩いて回る。昼食に蕎麦を食べ、無料バスで健康センター「ゆうパークおごせ」へ寄った。少し高台にあり、風呂からの見晴しが良い。水着を付けて入るふれあいの湯は、夏休み中でもあり、結構家族連れの客がいた。一番大きい風呂には、「泳がないで下さい」と張り紙がしてあるけれども、小学生低学年ぐらいまでの子供たちは張り紙もなんのその堂々と水泳のまねごとをしている。水着を付けて広い風呂に入れば泳ぐなと言う方が無理である。誰も注意をしないのが、むしろ微笑ましくさえ感じられる。
これから時々越生へ来て山歩きをし、帰りに「ゆうパークおごせ」で風呂に入り、体力の回復に努めようと思う。(続く)
*ジェムザール=一般名ゲムシタビン